日光と言えば東照宮です。しかし、徳川三代将軍・家光公が祀られていることは余り知られていないのです。霊廟輪王寺は、家康祀る東照宮と向き合って建立されております。
徳川15代のなかで、正室から誕生したのは家康、家光、慶喜の3人です。なぜ、向き合って建立されているかは、家康を慕っていたとも言われて居るからです。
家光は春日局に育てられ、幼少の頃は、ひ弱で秀忠の後継者(征夷大将軍)として疎まれ身の危険さへ有ったのです。
春日局と稲葉一族によって守られ「余は生まれながらにして将軍である」と言って豊臣方の大名を平伏させたのです。結果、武家諸法度や参勤交代の制度を定め徳川260年の基礎を創ったのです。
家光の大獣院は、上野寛永寺を始め日本の各地に「権現様」と同様あります。
東照宮は駿府(静岡県)久能山に葬られ、関八州の鎮守として戦乱、破壊から逃れるため、男体山の麓の日光に祀られたのです。
日光は3男「晋」が生まれて頸の座らない時に行ったり、芳光が受験の時や流星群の出現の時、戦場が原の駐車場に毛布引いて空を眺めたり、妻と水入らずの熟年の旅など四季折々に訪れても素敵な観光地です。
大獣院で親睦旅行の時に魔除けの金製の剣を購入し、功徳で胆肝癌から生還したのでしょうか。(^-^)(^ー^)
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日光、徳川家光の大獣院を見た?。
足利市 日本の最初の大学「足利学校」
足利学校は足利義兼によって創建されたのです。この時代は柱を削るために今の様な鉋(カンナ)無く、槍鉋でした。もし、鑁阿寺に行ったときに柱を良く見て下さい。もしかして、再建されているので創建当時の建物かどうかを見てください。江戸時代なると今の鉋に変わるのです。
この当時、足利学校は世界的に見ても大学として歴史あるのです。日本には足利学校より歴史ある大学は無く、世界的にみても11世紀に創立されたイギリス「オックスフォード大学」位だと思います。
エジプトはクレオパトラの産まれたアレクサンドリアは図書館です。 ギリシャに大学ではありませんが幾何学、天文学、哲学を教える王公、貴族、神官の教育機関はあったようです。
境内の鑁阿寺(足利氏の邸宅跡の)本堂、不動明王は国宝に指定されております。鐘楼、経堂は重要文化財です。
鑁阿寺の名前の由来は足利兼吉の改名の「鑁阿」から引用したのです。17世紀フランシスコ・ザビエルが大学として世界に紹介しているのは驚きです。
足利には、藤で有名な「フラワーパーク」もあり、冬は日本夜景遺産として登録されており、一年中楽しめます。
この園の園長のキャラクターが日経新聞に紹介されていたので妻と私は見に行ったのです。樹齢140年の大藤を4本移植したふっくらの顔たちの女性の腕を買われ園長になったのです。白藤のトンネルなど広大な敷地に5月の連休に咲き誇っております。
この足利には「伊万里、鍋島焼」の栗田美術館もあります。2度目に行ったときはクラシックコンサートやっていました。栗田美術館に色々な建物があり、その内の阿蘭陀館の屋根の写真を撮影し、その写真が全国瓦連合会のカレンダーに掲載されました。\(^o^)/
足利は一日楽しめます。
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結城紬の話
結城は戊辰戦争の激戦地です。結城は平安時代から続く織物の産地として有名です。
私たちは仕事の合間、お茶を小さな紬小屋で頂きました。どうも薄暗いので建主に訊ねたところ織り目を確認するために「チラチラ」しない影光が良いことを初めて知ったのです。糸が真綿の(蚕の繭玉・絹糸で光る)ため、横糸の模様が型紙と確認出来ないのとのことでした。それで納得しました。
結城紬と関係無いのですが、飲酒運転もうるさくない時代でしたので仕事が終わると豚の粗肉を鍋でコトコト煮た酒の魚で酒を飲む毎日でした。
この辺りの結城紬は農閑期の副業として細々と歴史を刻んでいたのです。ところが明治6年(1874年)ウイーン万国博覧会で絶賛あび、価格が高騰すると生産者が増え、粗悪品が出回り困った政府は規格を定めたのです。
1.地機で織ること。
2.糸は真綿で織ること。
国が決め良品を輸出でき、伝統が途絶えなかったのです。結城紬の機織りの見学は結城市商工会で尋ねると良いかと思います。
鏝絵と伊豆長七そして久喜市菖蒲栢間の鏝絵職人
伊豆松崎の長八美術館に行く機会に恵まれ見学したのです。驚きました。米粒位の小さな鏝絵(拡大鏡使用で見学)から、寺院の八方睨みの天井鏝絵、彫刻のような立体的な鏝絵などもあって職人冥利に特別な時間をすごしました。
それから10年後位経ち、春日部の田村邸の屋根、壁漆喰工事を依頼されたとき関宿の左官屋さんが屋根の上で立ちすくみ、困惑していましたので、私は「伊豆長八美術館」を見学すること各部の名称が分からないと言われ、神田の古本やを見聞する事を進め、1年の歳月懸けて無事完成にこぎ着け、三枝春日部市長より景観賞を授与されました。
平成20年ごろ、九州に近ツリのツアーでグラバー邸・軍艦島等行く機会に恵まれその後、妻とツアー離れ自分達で九州をレンタカー、特急列車の旅をして別府温泉のホテルで宿をとりました。湯船ある廊下を散策していると鏝絵が何枚も飾ってありました。説明書き見ると伊豆長八の流れをくむ、久喜市菖蒲栢山の左官職人の作品であってビックリしたのです。
帰ってきてからどのくらいだったか忘れましたが日経新聞に栢山の左官職人の記事が掲載されていたのです。彼もまた名人の一人です。彼の作品をと思って光子に相談したのですが「何処に置くの」と一蹴されました。そんな思いもあって、我が家に小さなギャリーを開くキッカケになったのです。
久喜市の偉人と関東大震災
本多静六は久喜市菖蒲の産んだ偉人です。彼は「公園の父」と呼ばれ、庭園の設計者であり職人としても活躍し日本の有名な公園の大半を設計、施工しました。日比谷公園を始め、北海道の大沼公園、会津の鶴ヶ岡公園、埼玉の羊山公園、明治神宮を始め、日本の統治下であった韓国の南山公園、尉山公園など数えあげれば100を越えるのです。
NHK大河ドラマ「イダテン」がオリンピックで活躍?した(令和元年 6月)時代です。(主演市川海老蔵、片岡愛之助)
静六はドイツに留学して、西洋の町つくり(公園)を学びました。今の上皇さまと 上皇妃(美智子さま)やアメリカ「ケネデ―駐日大使」や映画: ラストエンペラーの愛心覚羅溥儀を昭和天皇が白馬にお乗りなって「大元帥」の軍服でお迎えした東京駅丸の内広場、御幸通りも清六の設計なのです。
彼は、裕福な菖蒲の農家に産まれましたが、幼少のとき父を無くし多くの借金が舞い込み、折原家は大変になったのです。それでも学問に励み教授から多くの事を学び実行したのです。
最近、田中前市長が菖蒲市庁内に「本多静六記念館」オープンしました。大正12年9月1日の関東大震災で日比谷公園の樹木で火災が鎮火したのです。
当時の 江藤新平東京市長がこの事実に墨田公園、浜町公園、錦糸町公園をつくり100年の計に備えたのです。
江藤新平は「大風呂敷」と言われ震災を期に、東京をもとに戻すのでなく西洋に負けない都市計画を作成し、皇居を中心に環状道路、昭和(大正)通り、明治通り、靖国通りのインフラ整備したのです。
これらのインフラは幅30~45mの有ったのです。江藤新平の頭の中は常に100年先をみていたのです。
戦後の東京が焼け原に成り、インフラ整備の道路幅は江藤の造った道路幅はそれより狭く20~24mでした。
長たる者はは100年の歴史に評価されることを考えよ。
防人の小ヶ崎沼(崎玉神社)と石田堤(のぼう城)
現在、防人が別れを詠んだ河川の港(小崎ヶ沼)は場所が特定されていないのですが、岩槻~行田の古墳群の範囲と思われております。利根川の氾濫、蛇行で繰返し防人は移動した「津の港」まで行って家族と別れを惜しんだのでしょう。
この小崎ヶ沼には歴史の教鞭をとった不動岡高校の前田先生と生徒15名位でサイクリングがてら、高1の時に行ったのです。女性の方が多かったのです。♪♪♪。
なんの知識も無く、埼玉古墳群をみて(現在のように整備されていない時代)前玉神社や石田堤行きました。
前玉神社(式内神宮)の一対の灯籠の右側に「崎玉の津に居る船の風を いたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね」…。左の灯籠に「崎玉の小ヶ沼に 鴨ぞ翼きる 乙の尾にふりける 霜を掃ふとにあらし」防人「高橋虫麿呂」が詠んでます。この歌は白村江の戦いで大敗を期した高麗から攻め居る事を恐れた大和朝廷が、九州に防御体制を敷いたものです。
その他にも、行田工業団地内の「八幡山公園」に剥き出しの古墳に防人詠んだ2首の詩が刻まれています。埼玉県知事「畑 和」の石碑もあります。
石田堤は「のぼうの城」で野村満作の出演で有名になり、石田三成、大谷吉継が忍城を攻めを描いた映画です。秀吉の北条氏康の小田原攻めの武蔵の支城の舞台です。
現在は鴻巣市袋地区に「石田堤史跡公園」が建てられました。高校時代の思い出です。
猿島茶と境の川の一里塚
久喜市栗橋と野田市関宿は、利根川(江戸川)を挟み対岸に茨城県境が(坂東市)在ります。境の地名は、島根県の宍道湖の「ゲゲの鬼太郎」で有名な境市や利根川を対岸に持つ羽生と邑楽郡の羽生市側にもあります。字は違いますが大坂府堺市も有ります。
坂東市境は全国でも珍しい河川の一里塚が在ります。道の駅「境」の江戸川の堤防上にカッコ良い石の灯籠が目印で銘板もあります。
江戸時代の流通の主体は水運でした。水運を司る琴平宮が関宿側にあります。
銚子、上州(群馬県)、武蔵の名産や五穀、木材、長瀞の緑泥変岩、三波石等も荒川を利用して江戸に搬送されたことでしょう。
外にも利根川沿岸に茨城百景記念公園が、境のほかに守谷、松戸(柴又の渡し:風天 の寅次郎)四阿(茨城県小山)にあります。場所によっては、渡船場で今も現役のところもあります。境は土・日運航して街おこしを担っております。
話は変わって猿島茶は静岡、狭山、岡山、紀州のお茶に先駆けて輸出されました。あまりにも売れすぎて仲買人の悪知恵で柳の葉を混入させ輸出したのです。その為、今では無名の茶ところになって狭山、静岡茶に負け今では生産額が減り、地域ブランドに各下げになってしまいました。
また、明治時代に入り「富国強制策」の影響もあり、オランダ人の土木技術者「ムルデル」が明治23年利根川と江戸川を結ぶ運河を建設し、最後の仕事して帰国したのです。江戸川と利根川では水位の違いをパナマ運河の開門型式で克服したのです。近くに東京理科大もあります。
しかし、鉄道、道路の整備によって現在は使用されなくなり、桜の名所で流山側に割烹料理店が出来て乙な桜見物できます。お勧めします。
最後に利根運河の完成で、外洋船(大型蒸気船)が発達し全国の港から 東京に物流が入るようになって猿島茶の輸出は絶たれたのです。