古河市は関東領管、足利成氏が鎌倉より移り住み、古河公方として130年間古河領内の発展に尽くしたのです。しかし、深谷上杉氏と対峙し、戦で敗北し川越上杉氏を頼って争ったのです。。世の言う川越の野戦です。ここで嫡流の息子が討ち死にし、越後の長尾景虎を頼って、京への上洛を促したのです。
古河には、民族歴史館や篆刻美術、街角美術館、直木賞作家永井路子の実家(資料館)や石畳の粋な小道や多く、白壁の土蔵があって散歩がてらに歩いて見たくなる風景が佇んでおります。
また、他の街と違う明治のレンガ作りの蔵や小道、塀もあります。川越,喜多方、行田とはちょっと異なります。隣の野木町に日本屈指のホフマン窯あるせいでしょう。
野木町のホフマン窯は、深谷市の渋沢栄一の東京駅や帝国ホテルなどのレンガを作った炉跡のホフマン窯より立派で乗馬クラブもあって、今でもファッション雑誌などの撮影に来ております。
乗馬姿に緑青の屋根のホフマン窯、煙突、ゴールデンウイークにはカラフルな熱気球の競技も観られます。
古河市のレトロな街は旧4号の沿線にあり、宇都宮線古河駅界隈あります。また、古河市の小道は城郭都市や人頭税の関係で間口が狭く、4メートル道路が多いのです。
古河市は、猿島茶の産地であちこちの商店で猿島茶を売っております。
川魚の甘露煮も有名です。正月のおせち料理に1品加えてみてください。歴史を感じる甘露煮のお店も沢山ありますよ。
一度足を運んで見てください。驚きの自分を想像してください。
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蔵町古河の散歩
関根金次郎名人と将棋の駒の天童そして月山
子供が大きくなったので、妻と二人で開通したばかりの秋田新幹線で旅行したのです。山形で降り、駅レンターカーを借り天童に向かったのです。柘植の将棋と碁盤で有名な温泉地です。ダムのようなところに天に向かって吹き上げる噴水の景勝地で車を止めました。
休憩し、疲れも癒され月山に向かったのです。天童は将棋の駒と碁盤の産地くらいの知識がなく、通り過ぎたのです。
今では、東海道53次の浮世絵師安藤広重美術館、天童美術館、将棋資料館など見どころがたくさんあります。
今更ながら知識不足に驚いております。
出羽三山は、月山、出羽神社、湯殿山の合社です。立派な拝殿あり、過去、現世、未来を具現する仏の世界で、阿弥陀如来、滝などがご神体です。現世から隔離され、世界感に浸れる神聖な場所なのです。
天童市と言えば将棋の駒です。将棋と言えば浪速の縁台将棋師「坂田三吉」です。相手は関根名人です。その名人を飛車を用いて破ったのです。
関根名人の出生地が野田市関宿木間ケ瀬なのです。墓も関宿の駐在所の向かい側の墓地にあります。今は、訪れる人もないと思います。
坂田三吉の人生は、波乱万丈で丁稚奉公に行ったさきの坊やを賭け将棋に夢中になり怪我をさせ、お払い箱になったり、関根名人には勝ったのですがその弟子の負けてしまい王将に成る事ができず自らが王将だ声を張り上げ、関根名人の挑戦に応じ、最後にやっと認めてもらったのです。演歌、映画になった人物です。
将棋の協会から和解後王将の称号を授与されたのです。坂田三吉の生涯に思いを馳せ、ひなびた街歩きも粋なものです。
館林「茂林寺」のお尚さん
館林は羽生より122号線を渡れば直ぐ近くであります。今は高速でいけば30分位で行ける距離です。
子供が小さい頃行ったのです。「分福茶釜」の童話を子供にして、お揃いのセーターと洒落混んだのですが「お母さん、これ安かったでしょう」と言うのです。いぶかしく思い尋ねたところ「色が良くないね」でした。
若い頃、ローンがなく家を建てたのでお金がなく我慢をしていたのです。
分福茶釜の童話は日本各地にあり「分福」つまり福を分ける話です。民話の中で動物の報恩の話しなのです。浦島太郎や鶴の恩返し&かぐや姫も報恩の話す。
茂林寺は室町時代の開山で大林正通禅師に依るものです。国文学者「柳田国男」に依れば、茶釜の話は、人と動物の交流の話で、今のペットの「SNS」なのでですか。
茂林寺の茶釜も見学料を支払えばみられます。境内に入ると信楽焼きの狸がおで迎いしてくれます。信楽焼は六古窯で、日本の文化遺産です。信楽はビードロ釉、ナマコ釉で侘び、錆びの趣のある焼き物です。他を抜くという縁起ものです。
猫はエジプトに於いて7000~9000年の歴史があります。犬は、北方民族の話で狩猟民俗が狼をペットとして飼い慣らしたのです。日本の狼は、益獣として秩父の三峰神社や岩手地方に神と祭られております。
城ヶ島、横須賀、荒崎海岸の思いで旅行
私が大学生の時、一人でノコノコ出掛けて城ヶ島の大橋下の歌碑を撮影したのは白黒の時代でした。2回目は城ヶ島に土産物店が軒を連ねてビックリ!。私の中のフイルムを巻き戻せない状況の変化です。
淡い恋心抱いた整備課で、机を挟み中由さんとのプラトニック・ラブです。車の運転もおぼつかない時行ったのです。荒崎海岸にドライブと洒落混みました。萩原課長のお譲りのオンボロ車、今では廃車です。
私と彼女は人影ない荒崎の岩に隠れ話すことしきり、彼女は、当時流行りのトレンチコートです。私は毛糸のセーターに実を包み、彼女にキスをしたのです。
おっぱいを愛撫したのです。当時は童貞、処女が当たりまへででした。プラトックンクラブで終わりです。
帰りです、横須賀海岸通りは、曲がりくねった坂道でした。坂の途中でエンスト、今のようにオートでは無く、ギヤチエンジです。車が下がるかと思うと冷や汗です。困ったことこの上なしです。
この荒崎海岸は、富士山や天城連山を見渡せる、海と山の織り成す景勝地です。
2度目は、結婚まで約束したM子とT君、Kさんの4人で行ったのです。冬の寒い海風が吹きすさぶことしか覚えておりません。彼女の髪が乱れオーバコートの裾を押さえて撮った白黒の世界でした。
横須賀は日露戦争の東郷元帥と戦艦三笠くらいしか知りません。ロシアのペテロス.ブルグで第3バルチック艦隊を見に行き交差点でジプシーに囲まれ、妻の大声で難を逃れた記憶を思い出しております。
また、海部首相の時、「荒井屋」で生け簀の美味しい遅い夕食で妻が怒られたのです。栗橋のHさんの招待で横須賀の基地で護衛艦に乗船し、海上自衛隊の訓練の凄さを見たのです。乗船した艦は先頭でスゴさがバッチリ。
驚いたことに、招待者の階級でランチも違うのです。艦内で乗船艦の盾を記念に購入しました.今でも我が家の宝物です。
この日は快晴で富士山が大きく見えました。\(^o^)/(^○^)。
今は、観艦式も日米韓でしかも中国の制服組参加しているようです。おのろけ話で申し訳ございません。
超高齢に伴いボケ老人が 発生&北茨城の旅
ボケは、退職してから周りとコミューニケイションが取れず家の中で「祖大ゴミ」なってしまった人に多いそうです。
毎日が長くTVばかり観ているとボケが早まるのです。病院に入院し変テツのない天井や窓から見える変わらぬ光景は刺激が無く、ボケを早め、閻魔様に呼ばれ地獄への裁定下されるのです。(  ̄▽ ̄)(*´ー`*)。
最近は童謡作詞家「野口雨情」の歌碑はアチコチに在りますね。水海道や常総市、北茨城を北上した海岸線にある歌碑は知っていますか。
その隣町の北茨木市には、岡倉天心と交流の合った文化人が集うた六角堂は北茨城市の五浦湾の波打ち際に突き出た岩の上にあって3/11の東日本大震災に津波で流され、その後、再建されたそうです。私は流される前に早朝、見学に行って行って来ました。良寛和尚の庵より小さかった記憶です。この五浦海岸は、茨城の松島と言われ友人の案内で訪れた天心は気に入り、法隆寺 夢殿を模して建てられたのです。
天心は「観瀾亭」と名ずけ思索に耽ったそうです。
今は日本美術界の聖地と呼ばれて、茨城大の管理下です。木の壁は防腐剤を兼ねた赤のベンガラで屋根は三州瓦で塩害に強い瓦です。
この地を下見に来た「横山大観、下村観山、菱田春草」は気に入り家族と共に移り住み、日本の芸術界の先駆けになりました。そういえば、私の恩師、法元六郎先生から菱田春草の掛け軸見せていただきましたが、その後同窓会で贋物立ったことを聞かされました。
北茨城市に、天心記念五浦美術館もホテルの近くにあり、見学してきます。
野口雨情は北茨城の回線問屋の長男として生を受け「北原白秋、西条八十」と三大童謡詩人と言われております。私は妻と九州柳川に行った時、木原白秋の生家を見学し、白秋は日本の大学、高校の校歌を作詞したことを初めて知りました。
雨情の作詞は、懐かしい詩ばかりです。「十五夜お月さん、七つの子、赤いくつ、こがね虫」など私が知っている詩が多いのです。また、民謡も多数残しております。
江戸、東京の名所 早回り
江戸、東京は、江戸開府から400年以上の歴史ある世界の都市です。私の目で見た景観を足早にご案内いたします。50年以上前の京タワーに高校時代、私が18才に初めてにいきました。直ぐそばの増上寺は江戸城の鬼門に建てられた幕府の直轄寺です。東海道珍道中のツアーに参加して妻と行きました。
目白の椿山荘は次兄の長女の結婚式で行きました。三重塔が和風庭園の風情を醸し出しています。スカイツリーご存じ事、浅草寺もしかりです。
池袋の近くの鳩山会館は鳩山四代の政治の舞台、鳩、ミミズク等のモチーフと緑青の屋根、明治の社交場「鹿鳴館」を彷彿させ、教育の大切を教えてくれる絶好の場所です。バラ園も素敵です。小高い山ノ上で欅の巨木が夏でも涼しいです。今でも政治の舞台です。現在の相続人は鳩山由紀夫氏です。
コンドルの設計した古河庭園は和洋の素晴らしい庭園と明治のレトロな建物も見ごたえがあります。古河庭園は足尾鉱毒事件の古河市兵衞の邸宅です。田中正造や足尾鉱毒で離村した村人たちは、無念の気持ちでしょう。現在も渡良瀬游水地に役場跡、お墓が現存しいます。
江戸城(皇居)も見学できます。馬に乘った警察官も行き合う事もあります。
高田の馬場近くの神田川脇の「山吹の里公園」義弟の泉瓦店の直ぐ側です。
すすきのミミズクで有名な鬼子母神は(鬼は角の無い字です)インドの夜叉神です。人間の子供を食べ、500人の夜叉の子供を育て人々に恐れらていました。鬼子母神の鐘楼を義弟のKが屋根を施工したのです。昔、この辺りはススキの原っぱで働き過ぎで患った母を見かねて阿弥陀仏が「くめ」に諭したのです。ススキでミミズクを作って売りなさい。ミミズクは売れて「くめ」は母に薬を買って元気になって幸せなったのです。
目黒「雅叙園」は息子の結婚式の会場です。天井画が素晴らしく、リッチな気分になりました。桜の名所でもあります。桜の満開の時に行った目黒川、墨田公園と上野公園もバスで回り醍醐寺の秀吉気分に浸りました。
浅草寺には松下幸之助の寄贈の大きな提灯が有名です。提灯の下部に竜の絵柄はご存じ無いでしょう。見てください。仲見世も粋な小物売っています。浅草寺の本尊は漁師が網にかかった1寸2分の仏像です。いくら元の川に返しても戻ってきたそうです。厨子に安置したのです。
美術館、博物館は限りなくあります。アメ横も一度はゆっくり行ってみても損はないですよ。御徒町の地下街にダイヤモンド・金市場がありますよ。目の保養にいかがですか。アセアンの食糧品街もあります。話は此のくらいにしておきます。
頼朝伝説の仁右衛門島
海外から帰国する時、機上から眼下を遠望する時、雄大な九十九里の曲線美のなかに風力発電のプロペラが長閑に廻る光景を視ながら、成田国際空港に離陸するのです。
この曲線美の何処かに仁右衛門島が白波のなかに消されているのです。
仁右衛門島に、二十歳ごろ日本ユニカーの仲間と慰安旅行に行ったときです。個人所有の島で小舟にのって行きました。
遥かな記憶の中でブログを書いてます。頼朝伝説の残る温暖な小島ですがロマンがあります。
頼朝は石橋山の戦いで、平氏の梶原景時の温情で伊豆堂ヶ島に逃げ一命とりとめ、伊豆の対岸の仁右衛門島に身を潜め再起を図ったのです。
この島は古くから観光名所で新日本百景にも入るくらいです。もっとも印象に残っているのが玄関前の大蘇鉄です。再起を図るため、千葉氏との会見に百姓(実は百姓は100の姓=庶民)に多くの名字を賜下したのです。そのため下総の国は色々な名字があるそうです。
風光明媚な堂ヶ島は、頂上に大きなホールがあり、青空を仰ぎ見ることができ、海水は群青色を解き放ち、頼朝わずかの時を光の空間と美しいさに心安らぎ、源氏の棟梁として、あるいは政子のために多くの軍勢を要する千葉氏の前で一歩も引かず、大見えを張ったのです。
当時、平家で非ずんば人で非ず。と豪語した時代ですが清盛の没後、地方の平氏達は、京の警護・侍所警護に多大な費用を科せられ、すべて己の負担で解決したのです。こう言えばかっこいいのですが、犬同然処遇だったのです。