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雨漏り奮闘記 日光街道の商家の蔵造り

2009.02.10 (火)

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雨漏り奮闘記 日光街道の商家の蔵造り
ファイル 127-1.jpg東屋田村本店 リフォーム前の状態
田村家は東久爾首相宮が休憩し手植えの松がある春日部一の旧家です。

ファイル 127-2.jpg工事が95%進捗し棟工事の調整 葺き師は土方さん
人間と棟の高さを見比べて下さい。民家の蔵つくりでもこんなにすごいのです。浅草寺・東大寺・千葉の誕生寺は.もっとすごいのです。
ファイル 127-3.jpg新しきなった東屋田村本店。立派でしょう。職人冥利に尽きます。

ファイル 127-4.jpg春日部市市長三枝市長より表彰を受ける私(扇谷芳雄)
当時は㈱オオギヤの専務でした。

ファイル 127-5.jpg景観賞の賞状

平成3年8月不動岡高校の友人福田敏夫君から電話が有り
「扇谷君、仕事をやってもらいたいだが」
「場所は春日部」
「蔵の仕事かい」
「そうです」
話は早かった。早速現調(現場調査)に石川左官・工務店ムラセさんの3人で現調

屋根に上がって、壁周りの漆喰・蛇腹工事、棟の漆喰文様

見て、さすがの石川さんも、座って動かない
恐れをなしてしまった

見積どころか、名称さえ解らない
小僧の時、少し見ていただけ、と言う

「人がやったことだから、できるよ。」
「俺がアイデアを出す。神田の本屋に行って、昔の
左官工事の本を買ってきな」
「う~ん・伊豆の長七博物館に行ってみるか」

「道具の問題・名称の問題・仕事の流れの問題」
等々色々ありました。
「1年の工期を貰うよ」
「左官屋さんを知っているから、2組でやりなよ」

こんな話から始まったのが、春日部市でも旧家の     
東屋 田村本店」

春日部市の田村一系の本家筋でした。
それもひょんなことからでした。

最初、福田君と二人で田村家に御伺いした時のことです。
私の名刺を差し出すと、「扇谷」「鷲宮」とつぶやき
「扇谷 仁平を知っているか」
「私と24歳違う長男です」
「旧制不動岡中学で1学年下だった」

大正生まれの兄とは2周り違っていました。
2歳の時父をなくし、母と兄によって育てられた私ですが
不動岡中学・高校という繋がりで
話はとんとん拍子で契約になったものです。

工事は4年1月8日から始まって役10ヶ月かかりました。
屋根経済新聞社に掲載されました。

平成8年9月春日部市に都市景観の制度が出来
第1回目しかも春日部の顔といわれる「ロビンソン百貨店」を抜いて「デザインフォーラム96KASUKABE」で
1位に輝きました。
             新瓦博士

雨漏り奮闘記 浅草 羽子板市に行って

2008.12.22 (月)

雨漏り奮闘記 浅草 羽子板市に行って

ファイル 77-1.jpg浅草寺の雷門の門前で
松下幸之助氏の寄贈の大提灯

ファイル 77-2.jpg羽子板市でにぎわう仲見世

ファイル 77-3.jpg羽子板の前でハイ・ポーズ

ファイル 77-4.jpg美しい羽子板の色々

ファイル 77-5.jpg羽子板が売れて威勢のいい手締め

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12月18日三浦ドルフィンの高所順応訓練の後、浅草寺に行ってきました。
 目的は妻光子が、京都の料亭で舞妓さんと食事をした時、
料亭の玄関に飾ってあった羽子板の思い出をと・・・・・。

浅草には昔から「ほおずき市」「朝顔市」「酉の市」そして
最後の年の瀬の「羽子板市」と江戸の昔を語る風物詩があります。
 長い暦の中で育まれた江戸情緒だと思います。

地下鉄を降り、雷門に向いました。
反対側の通りの中央に、五重塔などを形どったイルミネーションが美しく輝いておりました。

雷門もライトアップされ輝いておりました。
雷門の大きい提灯は松下幸之助の寄贈でした。

 雷門を潜って仲見世です。
まだ7時を少し過ぎたくらいでしたのに、ちらほらシャッターを閉め、あるいは商品をまとめ閉店の準備をしている店がありました。

 もちろん、歩いているお客さんは「羽子板市」が目的で、
店を覗き込む人波も居ない所為なのかも知れません。
 かっての浅草で無く、新宿などに客を取られた思いが致しました。

羽子板も目が黒~茶色に変化しており、「日本人は黒い目」じゃないとね~。
 そんな冷やかしの中に、手締めのする方に誘われ、やっと光子が気に入った羽子板が見つかり、「おじさん、手締め要らんから負けてよ。職人 気合でいこう!」と言って3000円相当の飾り置き台負けてくれましたが、「もう、一声」と言って
頑張ったら、渋々1000円負けてくれました。

光子は満足して帰路に着きました。
「年の瀬の 終わりの市は 不況風」

新瓦博士

東京駅と石の瓦・鉛の瓦の話 雨漏り奮闘記 新瓦博士

2008.10.14 (火)

ファイル 9-1.jpgファイル 9-2.jpgファイル 9-3.jpgファイル 9-4.jpg

東京駅と石の瓦・鉛の瓦の話 雨漏り奮闘記 新瓦博士
東京駅の屋根瓦は重い石の瓦と言いましたね。
玄昌石という石です。日本では宮城県に産出します。
松島の瑞巌寺の境内近くにあるお土産屋の屋根も玄昌石で葺かれて(瓦を屋根に工事をする事を『葺く』といいます。)おりました。
泥岩/堆積岩です。薄く割れる性質を利用しております。フランスに多く産出し、黒。薄ピンク・グレーなどもあります。
また、静岡県韮崎に有る「反射炉」で有名な江川 太郎左衛門の邸宅の『蔵』は大谷石の瓦です。
加賀100万石の金沢城(金沢城公園)の石川門はもっと重い鉛の瓦屋根です。そのため、少し白っぽく見えるのです。
(350年以上の歳月をへている「重要文化材」建造物です。)
戦争のとき、弾薬が尽きるとそれを溶かして、鉄砲の弾丸として戦うためです。
 また、東京駅(重要文化財)は辰野 金吾の設計によるものです。
東京駅は夕日を受けて真っ赤に染まり、美しい建物(ルネッサンス式)ですが、今はビルにさえぎられ、その美しさを見せることはありません。しかし、芸術品としての価値は素晴らしいものです。
また、歴史の舞台に度々出てきます。
「平民宰相」原 敬が凶弾に倒れたり、ラスト・エンペラー「愛新覚羅溥儀」を「昭和天皇」が昭和19年にお迎えした中央口(天皇家専用の改札口)、大東亜戦争のときの機関銃の銃弾の痕(駅長室の壁)、又、開業当時のままの装飾品、ドーム天井、クリスマス週間のライトアップ、東京ステーションギャラリー・・・。知ってるようで知らないのが東京駅かもしれません。
 上記写真は東京駅70周年の記念『入場券』で開業当時の駅を描いた「錦絵」(近く創業当時の駅ビルと一緒に復元予定)です。
石川門・原首相の遭難現場プレート・天皇家専用の改札口・開業当時の装飾(ホームに多い)

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