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川崎宿~神奈川宿

2014.09.27 (土)

<御嶽山噴火>7人が意識不明 4人重軽傷

毎日新聞 9月27日(土)17時31分配信

<御嶽山噴火>7人が意識不明 4人重軽傷

 長野県と岐阜県にまたがる御嶽(おんたけ)山(3067メートル)の27日の噴火で、長野県は同日午後4時現在、7人が意識不明の重体と発表した。このほか、4人が重軽傷という。【巽賢司、福富智】

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瓦は1400年の歴史に中で、このままでは、技能者が育たない。瓦は震災。戦災。火災。多くの災難を乗り越えて、瓦が日本の街並みを支えたのです。
また、多くの世界遺産の屋根を守っているのです。

姫路城・奈良の大仏殿・薬師寺の5重の塔。
皆、瓦屋根があるのです。

江戸時代東海道は今と同じで、大阪・京都・江戸を結び大動脈だったのです。

江戸と神奈川宿の間に多摩川横たわり、
人々は難儀をきたしました。

東海道を往来する人々が、最後の宿場で
草鞋を脱いで、風呂に漬かって、身支度をして
江戸に向かったのです。

当然、宿場町は栄え、男衆は、飯盛り女と一夜を過ごす
ことも有ったのです。

また、大名行列の本陣跡も残っておりますが、
今は観光協会の高札や、タイル画が見られるのみです。

それでも、耳をそっと澄ますと往時の物語が
語り掛けて来るのです。

今は新幹線、東海道本線、1号国道線が何もかも
かき消すようですが、150年前のこの街道を
竜馬が駆け抜け、西郷が官軍を引きつれ、
篤姫、和宮、慶喜、勝海舟が時代に翻弄されたのです。

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東海道、川崎宿の案内板

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ちょうど家康が幕府を開いて、入府した日時が7月末でしたので、
川崎の六郷橋のたもとの神社に、無病息災を
祈願する茅の輪が設置され、参拝の人々が、
3度くくってお参りをしておりました。鷲宮神社にも7月末になると茅の輪が拝殿の前に設置されます。各氏子に紙形の配られた、旧利根川に白馬に乗った神主が詔を奉納し、巫女が設えた舞台で舞を奉納し、氏子総代が船に乗って人型の紙人形を流すのです。

その為、将軍家は、1月の新年の伺候と並び、7月の伺候も
大切な行事で、津々浦々から、大名たち賑々しく参勤交代で伺候したのしたです。

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江戸末期の重大な事件に数えられる生麦事件の碑。
この生麦事件は、薩摩藩主「島津久光」一行の幕政改革の
朝命を受け、江戸に東下する途中に起きた事件です。

江戸の薩摩藩邸を出て、午後2時ごろ英国人レックス・リチャードソン一行の4人が散策中薩摩の一行と出会ったのです。

当時は、大名行列を横切ることは無礼千万の時代でした。
リチャードソンは上海から来たばかりで、日本のしきたりを知りませんでした。

ところが、そこにい合わせたアメリカ領事館の書記官バンリードは馬から降り、脱帽して、行列をやり過ごしたのです。

露払いの家臣団は「馬から降りよ。脇へ寄れ。」といったのですが
言葉が通じず事件になったのです。

この事件をきっかけに英国と薩摩は、賠償金と犯人引き渡しの件で薩英戦争になり、英国と貿易するきっかけができたのです。

そこで、明治維新の最新鋭の軍備ができ、官軍が伏見の戦いで
勝利し、明治維新が敢行されたのです。

歴史のめぐりあわせとは不思議なものですね。
まさに、風吹いて桶屋が儲かるですね。

瓦も、平安時代技能者が育たず、茅葺や檜皮葺の
伽藍建築になったのですが応仁の乱を境に、
戦国時代になり、城郭が火事に強い瓦になって行ったのです。

そして、周りを取り囲むように武家屋敷もまた、
瓦の屋根になって行ったのです。


                           
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昭和30年代~40年代の横浜市鶴見区生麦のキリンビールの
看板絵(私が川崎の浮島町の石油コンビナート「日本ユニカー」に勤務していたころの懐かしい写真です。

手前から1号国道・生麦の瓦屋根の残る街並み・キリンビールの工場です。

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現在のキリンビールの煙突・工場

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