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赤穂浪士の眠る泉岳寺・浅野家菩提寺

2014.05.21 (水)

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『久喜の瓦屋さん雨漏り奮闘記』
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今年の2月の大雪は、関東地方から東北にかけて、
南極から帰った私たちを驚かせ、あまりの寒さに、
成田からの岐路、ジャンバーの襟を立て、チジコマリました。

そして、その雪の被害の修復工事、雪止め、
樋の修復工事、カーポートの
取り付け工事も終わりに近づきました。

皆様に、多大のご迷惑をおかけいたしました。
誠に申し訳ありませんでした。

日本は美しい四季があり、変化に富んだ景観を楽しめますが、
その裏を返すと、自然災害の多い国なのです。

地震・津波・竜巻・雪害・豪雨、噴火、落雷・洪水など、
身近に自然災害があるのです。

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 東海道珍道中も赤穂義士の眠る泉岳寺です。赤穂浅野家は、秀吉の「寧々」の実家の分家筋です。
寧々の実家・浅野長政は、秀吉が天下人になり寧々と結婚した事で安芸の国・広島藩42万6千石の城主となったのです。しかし、浅野家3男の浅野長重は、分家して赤穂50,000石の城主になるのです。
長重から3代目の長矩は、短気で領民に重税を課し、赤穂の領民からは暴君と嫌われておりました。
江戸城内の刃傷沙汰で長矩・切腹の報が赤穂の領民に伝わると、領民は赤飯を炊いてお祝いしたと言われております。
 5代将軍綱吉に即日切腹・赤穂藩の取り潰しが命じられたのです。

 なぜ、長矩は吉良に切り付けたのか疑問がわいてきます。
 1.指導役の吉良にわいろを贈らなかった。
 2.赤穂の塩の製法を教えなかった。
 3.赤穂の塩と三河の塩の経済戦争
といろいろ言われておりますが、どうも近松門左衛門の創作の部分が多く、腑に落ちないことが多いのです。
 吉良上野介は三河では今でも名君で吉良の乗っていた赤毛の馬が、民芸品として売られております。私も三河に行った時、買って来たぐらいです。

 これでは、芝居になりません。長矩を善、吉良を悪玉にしたのは、近松なのです。当時、赤穂藩には300名ぐらいの武士団がいました。徹底抗戦派と開城派がおりました。
ところが、広島の宗家・浅野家、親せき筋の三次藩・浅野家から
自分たちに罪が及ぶのを嫌い、開城の説得にあったたのです。
 大石もまた、抗戦派に対し開城の説得をしたのです。
大石がなぜ、癇癪持ちの暴君に吉良の首級を挙げることに意思を固めたのか。
 たぶん、即日切腹、なぜ、刃傷したか原因がわからなかったのでしょう。大石は浅野家と、親せき筋であったのです。当時の武士は主君のためにあって、ことあるときは命を捨てる。これが武士道だったのです。武士は、理由はともあれ、義に生きることが当時の家臣だったのです。
 大石は、吉良の首級を挙げた後、お家再興を願っていたのです。
しかし、吉良には何のおとがめなし。それが耐えられなかったのでしょう。
 原因は、一説には長矩の正室阿久里の横恋慕と浅野家秘蔵の
茶器を勅使供応の指導料として欲したのでしょう。
 また、長矩は、ストレスがたまると、胸が苦しくなるほどの、
精神異常者だったとも言われております。事実は面白くないのです。江戸の庶民は世の落ち着きに、御犬様にそんな世相に易癖していたのでしょう。それで、近松の創作「仮名手本忠臣蔵」に溜飲が下がる思いだったのでしょう。
 そんな思いの中に、四十七士の墓に手を合わせ、長矩・阿久里の墓標にも手を合わせ思いにふけった一日でした。

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泉岳寺の説明立札

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江戸時代の末期・天保年間の再建(大塩平八郎の乱の時代)
山門の龍の彫金・日本の 彫金の元祖 関 義則の作
                           
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大石内蔵助の墓

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赤穂浅野家のお墓(浅野長矩の墓)

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