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久喜市の偉人と関東大震災

2019.06.26 (水)

本多静六は久喜市菖蒲の産んだ偉人です。彼は「公園の父」と呼ばれ、庭園の設計者であり職人としても活躍し日本の有名な公園の大半を設計、施工しました。日比谷公園を始め、北海道の大沼公園、会津の鶴ヶ岡公園、埼玉の羊山公園、明治神宮を始め、日本の統治下であった韓国の南山公園、尉山公園など数えあげれば100を越えるのです。

NHK大河ドラマ「イダテン」がオリンピックで活躍?した(令和元年 6月)時代です。(主演市川海老蔵、片岡愛之助)

静六はドイツに留学して、西洋の町つくり(公園)を学びました。今の上皇さまと 上皇妃(美智子さま)やアメリカ「ケネデ―駐日大使」や映画: ラストエンペラーの愛心覚羅溥儀を昭和天皇が白馬にお乗りなって「大元帥」の軍服でお迎えした東京駅丸の内広場、御幸通りも清六の設計なのです。

彼は、裕福な菖蒲の農家に産まれましたが、幼少のとき父を無くし多くの借金が舞い込み、折原家は大変になったのです。それでも学問に励み教授から多くの事を学び実行したのです。

最近、田中前市長が菖蒲市庁内に「本多静六記念館」オープンしました。大正12年9月1日の関東大震災で日比谷公園の樹木で火災が鎮火したのです。
 当時の 江藤新平東京市長がこの事実に墨田公園、浜町公園、錦糸町公園をつくり100年の計に備えたのです。
江藤新平は「大風呂敷」と言われ震災を期に、東京をもとに戻すのでなく西洋に負けない都市計画を作成し、皇居を中心に環状道路、昭和(大正)通り、明治通り、靖国通りのインフラ整備したのです。

これらのインフラは幅30~45mの有ったのです。江藤新平の頭の中は常に100年先をみていたのです。
戦後の東京が焼け原に成り、インフラ整備の道路幅は江藤の造った道路幅はそれより狭く20~24mでした。
 長たる者はは100年の歴史に評価されることを考えよ。

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