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父熊太郎はすごい人でした。『たかが瓦、されど瓦、世界遺産に使用されている資材だよ。』瓦屋さん・雨漏り奮闘記

2010.10.15 (金)

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住まいの基本は屋根にあり。屋根は文化だ。芸術だ。
屋根材と外観の材料選びで『素敵』が違う。
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父熊太郎はすごい人でした。『たかが瓦、されど瓦、世界遺産に使用されている資材だよ。』瓦屋さん・雨漏り奮闘記

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母は私に父は偉大な人だった事を聞かされていた。
自分の出自が騎西町上崎で、一時、騎西町の中心地「玉敷神社」の近くにて瓦を焼いていたと言います。

しかし、本来ならば、熊谷~行田~羽生~騎西という明治の城下町
を通って東京に通じるはずであった本線が、行田・騎西という
城下町の人々の反対にあって(明治時代は汽車の為、火の粉で火事や農作物に被害を与えるという理由で反対された。)開通しなかった。

父は先見性を持っていたらしく、これからは、鉄道と原土がなくては瓦製造は出来ないと言って、良質な原土と、鉄道を求めて鷲宮町に工場の移転を考え、実行したのです。

一代決心でしたので、菩提寺の墓も鷲宮の霊樹寺に移したのです。

また、父は男一人、女2人の兄弟でした。
本当の近親者が少なかったことから、扇谷家を10軒に増やすと言って、先妻、後妻共励んで10人の男子と3人の女子に恵まれ、一生懸命に働きました。

また、時代が父の先見性を助けてくれたのでしょう。
鷲宮に移ったのが大正6年と言われております。

母『やす』もまたがんばり事業を拡大致しました。
たぶん、騎西町を離れるにあたり、郷社「雷電神社」に願をかけたのでしょう。

自分が成功したら、自分を育んでくれた郷土の雷電神社に石の鳥居を奉納しようと誓ったのでしょう。

大正12年9月1日、相模湾を震源とする関東大震災が発生したのです。
その時、父熊太郎は、母に取引銀行の預金を全て下ろさせ、当時は女の人は自転車に乗れない時代でした。

また、自転車は今の外車に当たるほど高価な乗り物だったのです。
その自転車に乗って、近郊近在の瓦屋さんに引き出したお金を持って、瓦の買い占めをしたのです。

その思惑があたり、父は金を数えるのが忙しかったそうです。(当時は現金決済しかありませんでした。)

そして、父は東京と言わず鎌倉の瓦屋さん(二階堂瓦店)また、三鷹市の甲州や建材店にまでおろしておりました。

私も甲州や建材店には何回か瓦を運んだ経験があります。
二階堂瓦店さんも陶器瓦を製造していたときに一度来社して、
父の話を聞かせてくれました。

関東大震災を機に関東地方の価格形成の実権を栃木県栃木市箱森の幸田瓦店と競うようになったと言われております。

そして、自分の夢が実現できたという事で、故郷の騎西町の上崎の雷電神社に石の鳥居を奉納したのです。

そして、昨日平成22年10月14日が70年記念式典となったのです。
私は70年前の(遠戚の野原さんより複写の写真を頂きました。)写真を持参いたしました。

そして、総代の坂本さんの紹介で父熊太郎の話をさせていただきました。

役員のみなさんは私の話を考え深く聞いて頂きました。
鳥居の建設費が現在価格で1500万円かかったこと、前述した話を快く聞いて頂きました。

また、私は来賓でしたので雷電神社の社殿前で役員さんと記念の撮影を致しました。

また、役員、区長さんと一緒に父が奉納した鳥居の前で撮影し、食事をとって、父の昔話を聞かせて頂き、3時近くに私と光子は失礼いたしました。

4時半ごろから中学生・小学生、また夕方にはカラオケ大会も始まるそうです。

子供達には焼きそば、トン汁が振る舞われるのでしょう。
役員さんたちは、6時に集合して、神社の幟バタを立てたり、焼きそばの用意したり大変だったようです。

帰りがけに阪本さんの奥さんにお会いし、また、騎西の名産『イチジク』を頂いて帰りました。

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雷電神社の前で役員の皆さんと一緒に撮影

ファイル 659-2.jpg
同上

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父熊太郎が奉納した石の鳥居の前で『雷電神社の総代・区長さんと』

                           
ファイル 659-4.jpg
光子と共に

太陽光を推進しよう会の「新瓦博士」
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人の噂も75日。私の父は70年たっても話題に上ったのです。『久喜の瓦屋さん雨漏り奮闘記』太陽光発電(ソーラー)もやってるよ

2010.10.15 (金)

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ファイル 658-1.jpg
雷電神社の奉納の幟旗

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子供たちの為に焼きそば・トン汁が振る舞われます。

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雷電神社に挙げた供物を持って社務所の向う役員の方たち。
光子が談笑しております。

                           
ファイル 658-4.jpg
祝詞の奏上の終わった神官.
国学院.学長で文学博士河野省三氏の孫に当たる玉敷神社宮司

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各氏子に配布する供物を分ける役員さん

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雨漏り奮闘記 日光街道の商家の蔵造り

2009.02.10 (火)

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雨漏り奮闘記 日光街道の商家の蔵造り
ファイル 127-1.jpg東屋田村本店 リフォーム前の状態
田村家は東久爾首相宮が休憩し手植えの松がある春日部一の旧家です。

ファイル 127-2.jpg工事が95%進捗し棟工事の調整 葺き師は土方さん
人間と棟の高さを見比べて下さい。民家の蔵つくりでもこんなにすごいのです。浅草寺・東大寺・千葉の誕生寺は.もっとすごいのです。
ファイル 127-3.jpg新しきなった東屋田村本店。立派でしょう。職人冥利に尽きます。

ファイル 127-4.jpg春日部市市長三枝市長より表彰を受ける私(扇谷芳雄)
当時は㈱オオギヤの専務でした。

ファイル 127-5.jpg景観賞の賞状

平成3年8月不動岡高校の友人福田敏夫君から電話が有り
「扇谷君、仕事をやってもらいたいだが」
「場所は春日部」
「蔵の仕事かい」
「そうです」
話は早かった。早速現調(現場調査)に石川左官・工務店ムラセさんの3人で現調

屋根に上がって、壁周りの漆喰・蛇腹工事、棟の漆喰文様

見て、さすがの石川さんも、座って動かない
恐れをなしてしまった

見積どころか、名称さえ解らない
小僧の時、少し見ていただけ、と言う

「人がやったことだから、できるよ。」
「俺がアイデアを出す。神田の本屋に行って、昔の
左官工事の本を買ってきな」
「う~ん・伊豆の長七博物館に行ってみるか」

「道具の問題・名称の問題・仕事の流れの問題」
等々色々ありました。
「1年の工期を貰うよ」
「左官屋さんを知っているから、2組でやりなよ」

こんな話から始まったのが、春日部市でも旧家の     
東屋 田村本店」

春日部市の田村一系の本家筋でした。
それもひょんなことからでした。

最初、福田君と二人で田村家に御伺いした時のことです。
私の名刺を差し出すと、「扇谷」「鷲宮」とつぶやき
「扇谷 仁平を知っているか」
「私と24歳違う長男です」
「旧制不動岡中学で1学年下だった」

大正生まれの兄とは2周り違っていました。
2歳の時父をなくし、母と兄によって育てられた私ですが
不動岡中学・高校という繋がりで
話はとんとん拍子で契約になったものです。

工事は4年1月8日から始まって役10ヶ月かかりました。
屋根経済新聞社に掲載されました。

平成8年9月春日部市に都市景観の制度が出来
第1回目しかも春日部の顔といわれる「ロビンソン百貨店」を抜いて「デザインフォーラム96KASUKABE」で
1位に輝きました。
             新瓦博士

東京駅と石の瓦・鉛の瓦の話 雨漏り奮闘記 新瓦博士

2008.10.14 (火)

ファイル 9-1.jpgファイル 9-2.jpgファイル 9-3.jpgファイル 9-4.jpg

東京駅と石の瓦・鉛の瓦の話 雨漏り奮闘記 新瓦博士
東京駅の屋根瓦は重い石の瓦と言いましたね。
玄昌石という石です。日本では宮城県に産出します。
松島の瑞巌寺の境内近くにあるお土産屋の屋根も玄昌石で葺かれて(瓦を屋根に工事をする事を『葺く』といいます。)おりました。
泥岩/堆積岩です。薄く割れる性質を利用しております。フランスに多く産出し、黒。薄ピンク・グレーなどもあります。
また、静岡県韮崎に有る「反射炉」で有名な江川 太郎左衛門の邸宅の『蔵』は大谷石の瓦です。
加賀100万石の金沢城(金沢城公園)の石川門はもっと重い鉛の瓦屋根です。そのため、少し白っぽく見えるのです。
(350年以上の歳月をへている「重要文化材」建造物です。)
戦争のとき、弾薬が尽きるとそれを溶かして、鉄砲の弾丸として戦うためです。
 また、東京駅(重要文化財)は辰野 金吾の設計によるものです。
東京駅は夕日を受けて真っ赤に染まり、美しい建物(ルネッサンス式)ですが、今はビルにさえぎられ、その美しさを見せることはありません。しかし、芸術品としての価値は素晴らしいものです。
また、歴史の舞台に度々出てきます。
「平民宰相」原 敬が凶弾に倒れたり、ラスト・エンペラー「愛新覚羅溥儀」を「昭和天皇」が昭和19年にお迎えした中央口(天皇家専用の改札口)、大東亜戦争のときの機関銃の銃弾の痕(駅長室の壁)、又、開業当時のままの装飾品、ドーム天井、クリスマス週間のライトアップ、東京ステーションギャラリー・・・。知ってるようで知らないのが東京駅かもしれません。
 上記写真は東京駅70周年の記念『入場券』で開業当時の駅を描いた「錦絵」(近く創業当時の駅ビルと一緒に復元予定)です。
石川門・原首相の遭難現場プレート・天皇家専用の改札口・開業当時の装飾(ホームに多い)

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