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記事一覧

上野寛永寺の歌川広重の松と彰義隊の墓

2019.06.20 (木)

上野恩賜公園は動物園、博物館、美術館、文化ホール、桜の季節には黄桜(右近桜)も咲き、四季折々にはイベント会場なり、見所が沢山あり1日中楽しめます。 食事も大観荘や精養軒、アメ横のアシアン料理、聚楽宴等事欠きません。地下街は日本の金市場、貴金属店軒を連ね、格安チケット店もあります。

上野寛永寺の 観音堂は江戸名所百景の松(覗き)忍ばずの池(天然池)を覗くのも粋なものです。
鳥羽.伏見の戦いに敗走した15代将軍が謹慎し、隅田川の別れで水戸へ下行し、慶応元年(1868)大村益二郎率いる官軍が上野山に立て籠る幕府軍と交戦し(彰義隊) 武器の差と農民主体の混成軍に敗走し、幕府の残党は関宿の戦い、坂東市、結城、宇都宮、白石、会津、山形、函館五稜郭の戦いで土方歳三、榎本武楊・大鳥圭介の幕府軍が敗れ,㍾維新を迎えるのです。

彰義隊の遺体は見せしめ為、上野山に散乱したのです。見かねた三ノ輪円通寺住職仏磨によって荼毘に伏に伏され、墓石と共に密かに埋葬されたのです。
西南戦争で自決した西郷隆盛の没後、㍾政府も安定し、㍾14年、元彰義隊「小川興郷」によって墓石が掘り起こされ、別に山岡鉄舟の筆に依る「彰義の墓」建立されたのです。山口県 萩市には吉田松蔭の松下村塾が在りますが、彼は大阪の蘭学医 緒方洪庵の私塾に通いました。現在の大阪大学の前身の適塾です。

静御前と田舎教師(田山花袋)

2019.06.18 (火)

一件繋がらない遺跡の見学の話です。栗橋駅の近くの公園に静御前の墓が安置され、今は、栗橋街の街おこしに一役買っております。昭和の初めの町村合併まで「静ヶ村」の地名でした。静御前は、京から吉野の弘法大師が開祖した金剛峯寺まで身重の体でたどり着いたが、もうそこには鎌倉幕府の追手が延び、義経私従は陸奥の道を行者姿で藤原秀衡のもとたどり着いたのです。静御前は捕らえられ、鎌倉八幡宮の頼朝の御前に召し出され、当代随一の白拍子で舞を強要されたが、静は私は義経さま妾であると断ったのです。頼朝は、激怒し政子が取りなし、舞いは八幡宮の能舞台で披露されました。しかし、身籠っていた男子は出産ご殺されました。

田舎教師は羽生、行田、古河を舞台に実在の人物、羽生の小林秀三氏の日記を元に田山花袋が書いたものです。田舎教師は足利の呉服問屋に生まれ、父の道楽の骨董で身を崩し、熊谷の長屋に住み着き、その後、行田の旧忍城の城下の長屋に住んだのです。
 ㍾34年行田から4里道のりの弥勒高等小学校通ったのです。作家の田山花袋も館林生まれです。田舎教師の小林清三は熊谷中学を卒業して代用教員なったのです。今、当時の弥勒小学校は無く、私の不動岡高校の担任の法元六郎先生の建てた下駄履きに羽織姿のブロンズ像がたっています。
小林清三が恋心を抱いた北川美穂子(お種さん)の墓が近くの円照寺に記念碑が建っています。清三は21才の時に結核に架かり行田の斎藤医院で診療したのです。清三は行田の電電公社の近くの柳の湯にもらい湯だったのです。
北川美穂子さんは北袋の母の姉が住んでいた橋の袂のお店の娘さんのです。清三は娘さんが弥勒小に弁当を届ける事を心待ちしていました。
清三の給与は11円で船で古河の花街(中田宿)へ遊びにいったのです。益々貧乏なった清三は小林秀三の友人の住職に願い、羽生建福寺に転げ込んだのです。
当時の古河は花街がありましたが、4号線でき奥州街道の宿場街でしたが今は跡形も無く、静御前は古利根を渡れず病に倒れたのです。
清三も静御前も若くして失意の中で無くなり清三を知る人もいなくなったのです。
 話は違いますが田山花袋の兄、管原正敬の碑が鷲宮神社に多数あります。かれは、文筆家で急進的な新聞記者でした。

加須市 浮野の里

2019.06.17 (月)

六月の土日は、加須インター近くにある浮きの里は,花菖蒲が咲き、茜たすきに紺かすり姉さんが田舟を漕いで足踏み水車回っていることでしょう。潮来の風景とおなじです。この浮きの里には氷河期の特有の植物と里山の風景が色濃く残っております。菱や食中植物の宝庫です。駐車場や水洗トイレも完備され木道もあって散歩がてらに行ってみてはどうですか。。高見台もあるのです。
沼海老、オタマジャクシ、メダカ、運かよければ亀に会うかも知れません。地シバリの黄色い花も見ごろです。
帰りに加須のうどん等も粋です。加須のうどんは利根川の反乱で肥沃な堆積層に恵まれ二毛作が可能になり麦畑が広がっております。今は都市化の波で住宅地になって耕作放棄地ふえるばかりです。
もし、時間があったら不動尊の五箇宝を買って総願寺の編額を住職頼んで見学したらどうですか。くすんでよく見えませんが関孝和の弟子が羽生から加須近在に多くいたのです。板倉の来電神社の編額よく見えます。関孝和はキリスト教を信奉してたことはあまりしれれておりませんが。
五箇宝は参勸交代の大名、家来のお土産だったのです。
秩父街道、中仙道から故郷に持ち帰ったのです。縁起の良い菓子です。熊谷と加須の特産品です。

成田山と野田市関宿の地名

2019.06.17 (月)

野田市関宿町は明治初期30,000人口で木更津市についで千葉県第3位の町(関宿)です。
 寺町、台町等の地名を残しておりますが今は鉄道、高速道路等の流通良くなり寒村化しています。

当社も仕事の関係で関宿と多くの関わりを持っていました。木間ヶ瀬のk大工仕事で駒形神社の屋根葺き替えをしたときの事です。見渡す限り全面に稲穂が揺れる穀倉地帯の風景広がっておりました。小さな杜です。木々に巻き付いた縞蛇ポトン、ポトンと落ちてきたのです。ビックリしました。
 そもそも、駒形神社は、将門の名馬が飼い葉桶の水を飲んだ所餅が入っていて喉を詰まらせ死亡したため、村人が社を建立したのだそうです。
平貞盛の密使のなかに「桔梗」と言う間者いたそうです。貞盛は碓氷峠の関所通り、京都へ逃げ帰り平将門征伐のために成田山新勝寺と太田の豪族藤原秀郷の合力で関東を朝廷の管理下に統治できたのです。神田明神は岩井(磐井)の神田(カデ山)の地名を取ったものです。大手町の首塚も将門の呪いで移設しようとすると事件が起き当時のままだそうです。
坂東市、野田市、春日部市には、将門由来の地名が多いのは菅生沼を琵琶湖見立てて着けた地名だからなのです。
武者土、〆切、古布地、山崎、三ヶ尾等があります。私は、仕事で色々ところに行き、地域の知識を得ることは人脈でき一石二鳥です。
駒形神社の氏子の人たちは桔梗の花と成田山の参詣にいかないそうです。こんな話も時代と共に忘却の彼方流され忘れられる地名です。

鹿島神宮と香取神宮

2019.06.06 (木)

鹿島神宮と香取神宮は利根川を挟んでアイヌや北方の蛮属の前戦神宮して神武天皇18年に建立されたのです。そのため社殿は 北向に建立されております。両神宮とも軍神を祀り、当時は、今の霞ケ浦が両神宮のあたりまで中の海を形成し、船運で兵を北方に送りだし、また香取神宮は京の都への物資運搬を担っていたのです。
 鹿島神宮は大化の改新で功績を上げた藤原鎌足(不二原鎌足)の所領となったのです。

 藤原家の祖先は白い鹿に乗って奈良の都に降り立った所が北野天満宮なのです。
 驚いたことには、藤原氏は私の妻の先祖です。上野国立博物館の特別展示で絵巻物描かれていました。

鹿取神宮に鹿島の大王を行幸する12年事の御座船祭りを見学行って、何十雙の大漁船を従え利根川上る光景は圧巻でした。

帰りの鹿島神宮近くの利根川の橋の上から覗き見た大漁旗の漁船と御座船が一団となり水郷・潮来の光景もきらびやかな絵物語の光景も忘れられません。

潮来と言えば、田舟を漕ぐ紅いタスキに紺かすりの風景が思い出され、日本各地にいろいろな四季折々の風情があり、風景があります。

川越の散策:

2017.05.15 (月)

東京から近い川越の蔵作つくりの街並みでは、銀行も明治の建物を再現して景観保全に努めております。

 川越の街並みは豪族河越氏の所領で鎌倉時代に遡ります。いま、川越は年間30万人の観光客を引き寄せ、インバウンドに人気の街並みを形成しています。
 時の鐘、お菓子横丁、蔵作りの街なみ、川越市立博物館、喜多院、仙波東照宮、本丸御殿、山崎美術館、川越蔵作り資料館など一日では見切れないほどの観光のポイントがあります。

 そもそもは、川越の商人は江戸の豪商たちが明治6年の大火で蔵が残った現実を目の前にし、日本橋界隈の街並みと関東大震災で東京が全滅に近い打撃を受け、残った蔵の数々を見て、街の通りを土蔵を選択したのです。
 川越の商人は、荒川の支流を利用して復興の財を持っていた商人たちは漆喰の蔵作りの黒壁の街並みを選んだのです。
 今度、ゆっくりと観光しようと思っています。
 山鉾の山車の出る川越祭りにも行ってみたいと思っております。10月の第3土:土:日だそうです。また、ブログを書きたいと思います。

商家の土蔵の屋根に鬼瓦と和瓦がなかったら寂しいですよね。

2017.05.15 (月)

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 今、川越は池袋から西武線で30分で来られ、江戸情緒と日本の文化を満喫できるので、インバウンド効果が60万人に及ぶとか。

 3代将軍の乳母、春日局の喜多院もそうですが、町全体で町おこしをしております。
祖には鬼瓦と和瓦の醸し出す街並みがあるからです。同じ街道筋の春日部もに日光街道があるのですが、蔵が少なく、蔵造りが点在して、江戸時代の町並がないのです。
もし、草加市も松並木だけでなく、中川の水運、日光街道の街並みが残っておればなどがインバウンドが訪れ、惜しいところで呼び込むことができておりません。それよりも行政にとって人口増加が街の発展に寄与すると考えたのでしょう。人口増加は経済を発展させ、住人を豊かにし、経済が大きくなり、固定資産も市を潤わせることでしょう。地方都市の各所で人口減に悩んでいるのが日本の現在の環境です。

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