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今は、旧東海道の面影もなくなった藤沢の宿場

2014.09.29 (月)

http://blog.with2.net/link.php?720512
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今、東日本大震災で国民の意識が変化している。
1400年の瓦の歴史に、故郷の風景に、変調を感じるのは、私「屋根屋のおっさん」だけなのでしょうか。
瓦は1400年の歴史に中で、このままでは、技能者が育たない。瓦は震災。戦災。火災。多くの災難を乗り越えて、瓦が日本の街並みを支えたのです。そして今があるのです。
TEL0480-58-0301 瓦も軽量瓦がありますよ。
ご連絡お待ちしております。

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忠臣蔵で馴染み深い東海道の
お軽勘平の碑
忠臣蔵の歌舞伎演目に出てきます。

吉良上野介邸の討ち入りの日に
勘平はお軽に横恋慕して、江戸を逃げるように
立ち去り、四十四士の浅野家臣達に勘平は男が立たんと言って、
戸塚の宿に来たのです。

短剣を抜いて、切腹しようとしましたが、
短剣をお軽に取り上げられ、お軽に実家のある京都の内蔵助が遊興した京都の山崎に落ち延びることを勧められたと言われる碑。

ファイル 1315-2.jpg
戸塚宿大坂の松並木は明治時代までは立派なもので,
鎌倉に住んでいた浮世絵師:鏑木清方も大阪で車を止めて
スケッチしたと言い伝えられています。
古い写真集には「「清方の松」が良く掲載されてています。
でも、戦時中の松根油製造と戦後の通過自動車の急増、
排気ガス問題で大坂の松は次々に枯れてしまいました。
枯れたら植えれば良いのですが、地元の行政は
そんな地味な事には関心を示さず、弱った松は松喰い虫が付くから…伐採してしまいました。
ですから往時をしのばす景色はもう全く残されていません。
 今、往時の松並木が、この旧東海道にあればインバウンドを呼び込めることでしょう。ローマ街道には地中海松がありました。

わずかに、歩道の脇に「お軽かる勘平」の碑が寂しく建っています。碑の背後には背の丈ほどの痩せこけた松の苗が植えられています。

1本では松並木になりません。時代の流れなのでしょう。

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遊行寺の本堂。東海道藤沢宿の時宗の総本山
珍しい寺紋がありました。亀甲三引なのでしょうか。
東海道の道すがらの有ったものですから、
境内は栄へ、門前町も形成されました。門前に位置が立っていたことでしょう。

今は、面影がなく、一般お住まいが立ち並んでおりました。


                           
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安藤広重の神奈川宿と戸塚宿の浮世絵(東海道五十三次)
望むべくもなく海は見えず、ビルが林立しておりました。

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安藤広重の東海道53次を見ていると
往時の藤沢の宿の賑いが想像できます。

遊行寺の様子が山の上に描かれております。
ここは江の島弁財天に詣でる分かれ道で、弁天様の
第一の鳥居が描かれております。

遊行寺の境内には、宿場町が火災に逢った時
人々が火災から逃れるために「広小路」が
作られていたのです。

今、有名なのは、上野広小路が有名です。
今は、ハザード・マップに災害時の避難場所が
出ています。
広小路は、昔の災害避難場所なのです。

その一つに、関東大震災の時に日比谷公園は多くの府民の命を
救ったのです。

近代公園の設計者、久喜市菖蒲町の本多静六博士の設計です。
また、日比谷公園には、樹齢400年なる銀杏があったのでが、
日比谷通りの拡張工事で、邪魔だということで伐採の危機に
面したのです。

その時、本多静六博士は、自分の首にかけても移植する。
といって450m移すのに25日かかったそうです。

関宿の細井組の社長が巨木のの移設が大変難しい
話を聞いたことがありました。

今では、日比谷公園の名物木で「首掛け銀杏」と
都民から愛されております。

久喜市・加須市・白岡町・杉戸町・羽生市・古河市・熊谷市の皆さん応援してくださいね。
連絡は0120-58-9901 または0480-58-0301

屋根のことならお任せ「新瓦博士」!
当社ホームページはhttp://www.ogiya.co.jp です。
クリックしましょう。

戸塚宿大坂の図

戸塚宿~藤沢宿

2014.09.28 (日)

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埼玉の屋根工事店です。上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。

連絡先は
FD0120-58-9901  TEL 0480-58-0301

故郷の  訛り懐かし そを聞きに行く。
誰もが遠くに行っていると故郷が懐かしくなるのです。

故郷には、見慣れた古い瓦の街並みがあって、
おふくろの鍋のにおいがして、
幼いころ遊んだ友達の面影がそこかしこで
浮かび上がってくるのです。

そんな故郷も、今は新幹線・飛行機が一般的になり、
故郷を捨てて、嫁はんの実家の近くに
ローンで家を建てる。

故郷の墓参りも、足が遠のき、携帯で近況を
尋ねて終わり。何かさびしくありませんか。

温もりのなくなった世の中は、独居老人と孤独死
そこには悲しいドラマが横たわっているのです。

赤々とした囲炉裏の炎が、心の温もりを感じ「やっぱり故郷だ。年老いたお袋のしわくちゃな笑顔」に温かみを感じるのです。

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  雨漏り奮闘記・埼玉の屋根屋より。
いま、瓦の施工方法に全国瓦工事業連盟(全瓦連)の組合員が一丸となって「耐震・耐台風工法」(ガイドライン)に取り組み、
行政からの要請を受け、東日本の震災復興住宅に推奨されております。
和瓦の街並みがなくなる、ドナルド・キーンが愛した瀬戸内の尾道の風景が赤い瓦の街並みなってしまったら。
京都・奈良の和瓦がコロニアルになってしまったら。
そんなことを危惧する一人です。
瓦屋根の故郷の景観を大切に。

                                                                     
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江戸の中ごろより、東海道を旅する人々を見守り、
或る時は一息入れて、汗をぬぐう木陰だったのです。
樹齢300年の益田家のモチノキ

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今回の休憩場所となったスーパーの片隅にあった
見つけ址です。
見つけとは、現在のポリスボックスの
大きいと思えばよいのです。

また、別の隅には、樹齢100年以上の桑の木がありました。

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欄干と擬宝珠のある大橋です。
昭和61年に大改修され、現在の橋になったのです。
「東海道53次・戸塚」風好明媚な場所で、
広重などが53次を描いた場所です。

今は、ビルが林立し富士山は望むべくもありません。
下のタイル画で江戸時代の光景を描いてください。

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富塚八幡宮。源頼義・義家が寄進した社殿が建てられ、
山頂の古墳の上に建てられているのです。

冨塚から訛って戸塚の地名になったのです。

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浅間神社・鳥居横に庚申塔や富士講碑があります。
庚申塔は中国の道教の教えに従い、講の完了後、
夜会を開いたりすることがあり、男女の密会に
利用されたと聞き及んでおります。

江戸時代は、結構男女の仲は、今思われているより
大らかのようで、三行半も女から下されることが多く、
妾奉公と言われるくらい、今よりも粋な時代でした。

静御前は、鶴岡の八幡宮で頼朝に舞を所望されたが、
私は源の義経の妾で、他の貴公子の前で舞を
舞うわけにはいかない。と啖呵を切ったぐらい
妾は、立派な職業だったのです。

UMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUMUM

さいたまの屋根工事・葺きかえのアドバイザー・オオギヤです。
瓦は1400年の歴史があり、耐久性があって、メンテナンスが楽なのです。
3/11の東日本大震災でも復旧工事は早く、15か月くらいで
修復作業が完了したのです。
重いと思っている方もおると思うのです。
そうではないのです。建物のメンテナンスの問題なのです。
なぜ、歴史の中で消えなかったのか。
良いものは残る。ここなのです。

当社ホームページは
http://www.ogiya.co.jp/です。
クリックしましょう。
エコは安いよ。住宅のメンテナンスはエコですよ。
連絡先は埼玉県久喜市鷲宮中央1-19-10
FD0120-58-9901  TEL 0480-58-0301

馬鹿な先生夫妻もいたものですね。
よっぽどエロキチガイかストレスの発散か、どっちなんでしょう。

公園で子供に裸露出 夫婦逮捕
2014年9月27日(土) 19時12分掲載 .

<公然わいせつ>公園で妻の裸を撮影 教員夫婦を逮捕

 公園で子どもたちに妻の裸を見せてビデオ撮影したとして、宮崎県警は27日、私立高校教諭、菊池祐介容疑者(35)と、妻で宮崎市立中学校講師の夏美容疑者(26)=いずれも宮崎市恒久=を公然わいせつ容疑で逮捕した。県警によると、2人は「撮影するためにやった」と容疑を認めているという。(毎日新聞)

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川崎宿~神奈川宿

2014.09.27 (土)

<御嶽山噴火>7人が意識不明 4人重軽傷

毎日新聞 9月27日(土)17時31分配信

<御嶽山噴火>7人が意識不明 4人重軽傷

 長野県と岐阜県にまたがる御嶽(おんたけ)山(3067メートル)の27日の噴火で、長野県は同日午後4時現在、7人が意識不明の重体と発表した。このほか、4人が重軽傷という。【巽賢司、福富智】

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瓦は1400年の歴史に中で、このままでは、技能者が育たない。瓦は震災。戦災。火災。多くの災難を乗り越えて、瓦が日本の街並みを支えたのです。
また、多くの世界遺産の屋根を守っているのです。

姫路城・奈良の大仏殿・薬師寺の5重の塔。
皆、瓦屋根があるのです。

江戸時代東海道は今と同じで、大阪・京都・江戸を結び大動脈だったのです。

江戸と神奈川宿の間に多摩川横たわり、
人々は難儀をきたしました。

東海道を往来する人々が、最後の宿場で
草鞋を脱いで、風呂に漬かって、身支度をして
江戸に向かったのです。

当然、宿場町は栄え、男衆は、飯盛り女と一夜を過ごす
ことも有ったのです。

また、大名行列の本陣跡も残っておりますが、
今は観光協会の高札や、タイル画が見られるのみです。

それでも、耳をそっと澄ますと往時の物語が
語り掛けて来るのです。

今は新幹線、東海道本線、1号国道線が何もかも
かき消すようですが、150年前のこの街道を
竜馬が駆け抜け、西郷が官軍を引きつれ、
篤姫、和宮、慶喜、勝海舟が時代に翻弄されたのです。

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東海道、川崎宿の案内板

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ちょうど家康が幕府を開いて、入府した日時が7月末でしたので、
川崎の六郷橋のたもとの神社に、無病息災を
祈願する茅の輪が設置され、参拝の人々が、
3度くくってお参りをしておりました。鷲宮神社にも7月末になると茅の輪が拝殿の前に設置されます。各氏子に紙形の配られた、旧利根川に白馬に乗った神主が詔を奉納し、巫女が設えた舞台で舞を奉納し、氏子総代が船に乗って人型の紙人形を流すのです。

その為、将軍家は、1月の新年の伺候と並び、7月の伺候も
大切な行事で、津々浦々から、大名たち賑々しく参勤交代で伺候したのしたです。

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江戸末期の重大な事件に数えられる生麦事件の碑。
この生麦事件は、薩摩藩主「島津久光」一行の幕政改革の
朝命を受け、江戸に東下する途中に起きた事件です。

江戸の薩摩藩邸を出て、午後2時ごろ英国人レックス・リチャードソン一行の4人が散策中薩摩の一行と出会ったのです。

当時は、大名行列を横切ることは無礼千万の時代でした。
リチャードソンは上海から来たばかりで、日本のしきたりを知りませんでした。

ところが、そこにい合わせたアメリカ領事館の書記官バンリードは馬から降り、脱帽して、行列をやり過ごしたのです。

露払いの家臣団は「馬から降りよ。脇へ寄れ。」といったのですが
言葉が通じず事件になったのです。

この事件をきっかけに英国と薩摩は、賠償金と犯人引き渡しの件で薩英戦争になり、英国と貿易するきっかけができたのです。

そこで、明治維新の最新鋭の軍備ができ、官軍が伏見の戦いで
勝利し、明治維新が敢行されたのです。

歴史のめぐりあわせとは不思議なものですね。
まさに、風吹いて桶屋が儲かるですね。

瓦も、平安時代技能者が育たず、茅葺や檜皮葺の
伽藍建築になったのですが応仁の乱を境に、
戦国時代になり、城郭が火事に強い瓦になって行ったのです。

そして、周りを取り囲むように武家屋敷もまた、
瓦の屋根になって行ったのです。


                           
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昭和30年代~40年代の横浜市鶴見区生麦のキリンビールの
看板絵(私が川崎の浮島町の石油コンビナート「日本ユニカー」に勤務していたころの懐かしい写真です。

手前から1号国道・生麦の瓦屋根の残る街並み・キリンビールの工場です。

ファイル 1313-5.jpg
現在のキリンビールの煙突・工場

久喜市・加須市・白岡町・杉戸町・羽生市・古河市・熊谷市の皆さん応援してくださいね。
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赤穂浪士のお墓と歌舞伎座

2014.05.22 (木)

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連絡は0120-58-9901 または0480-58-0301
『久喜の昔は瓦屋さん。今や屋根屋さん。屋根材ならなんでもどうぞ』
TEL0480-58-0301
ご連絡お待ちしております。
 日本には昔から甍の波ありました。
最近は、街並みを保存して町おこしをしています。
街並みの中でも、京都の円山公園から、清水寺の二年坂
産寧坂のあたりは、甍(瓦)の街並みが美しく、東京では
浅草・浅草寺の仲見世の霧除け屋根が粋な通りを演出しております。お暇なときに「スカイツリー」を見ながらそぞろ歩きもよいですよ。
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 元禄時代は、幕藩体制の中でも、平和で、まだ幕府の財政も、中央集権国家的な強力な幕府を確立していたのです。
 また、財政的に、非常に安定し、それを継承した時代でした。
当時の武家諸法度では、喧嘩両成敗でしたが播州赤穂の家豊臣の5大老で浅野長矩は24歳の短気な若者で病的なくらい癇癪もちで当り散らした暴君であったが、それでは芝居にならず、家臣団が名君としてお慕い申していたことになったのです。

 平和なこの時代に、仇討ちは禁止されていたのです。仇討ちを成功させたことは、武士の鑑ともてはやされ、吉良邸がある浅草から、品川の泉岳寺まで、堂々のデモンストレーションを敢行したのです。
 当時の武士・江戸市民が喝采を送ったのです。それが近松門左衛門によって、戯曲され、浄瑠璃の
題材になったのです。
 基盤太平記から仮名手本忠臣蔵になったのです。
討ち入りは、元禄15年12月14日ですが、今のカレンダーでは
西暦1703年12月30日なのです。
 松の廊下の不祥事・討ち入りの家臣団の心境。吉良上野介の勅使の饗応役の謎、今になっては、すべてが推測の域を出ないのです。
 文献・記録がないのです。不思議なことですね。解らないから面白いのです。芝居も面白くなるのです。事実がわかっていたら歴史になってしまうのです。
 お化けだって正体がわからないから怖いのです。実際松の廊下は暗くて吉良上野介の顔が判別できなっかたそうです。

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赤穂義士の墓に線香を手向け、大願成就を成し遂げた
義士に安らかに永眠を願う光子。

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宝井其角と親交があった大高源吾のお墓
俳人でもあった、大高源吾が果たした役割が討ち入り
成功に大きく寄与したのです。

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高田の馬場の決闘と平和な時代に仇討ちを
2度も経験した、越後の浪人です。
堀部家に養子に入り、赤穂藩士になり、徹底抗戦派の
急先鋒で堀部弥平ともに討ち入りを果たした。


                           
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南極の旅の説明会に行ったとき
東京メトロ・銀座口で降りたら、歌舞伎座が
新装になって、12月だったものですから、
忠臣蔵祭りをやっておりました。

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帰りに妻の光子と夜の銀座を楽しみました。
銀座4丁目のリコーと服部時計店の夜景は素晴らしいですね。
道路の真ん中で撮影いたしました。

太陽光を推進しよう会の「新瓦博士」
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㈱オオギヤは塗装・内装・改装・解体・舗装工事もやってるよ。

連絡先は埼玉県久喜市・ラキスタの里、鷲宮です。
屋根屋が面白ブログ。
久喜市・杉戸町・白岡・蓮田・春日部・古河・幸手
羽生・加須のこともアップするよ。
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赤穂浪士の眠る泉岳寺・浅野家菩提寺

2014.05.21 (水)

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『久喜の瓦屋さん雨漏り奮闘記』
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今年の2月の大雪は、関東地方から東北にかけて、
南極から帰った私たちを驚かせ、あまりの寒さに、
成田からの岐路、ジャンバーの襟を立て、チジコマリました。

そして、その雪の被害の修復工事、雪止め、
樋の修復工事、カーポートの
取り付け工事も終わりに近づきました。

皆様に、多大のご迷惑をおかけいたしました。
誠に申し訳ありませんでした。

日本は美しい四季があり、変化に富んだ景観を楽しめますが、
その裏を返すと、自然災害の多い国なのです。

地震・津波・竜巻・雪害・豪雨、噴火、落雷・洪水など、
身近に自然災害があるのです。

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 東海道珍道中も赤穂義士の眠る泉岳寺です。赤穂浅野家は、秀吉の「寧々」の実家の分家筋です。
寧々の実家・浅野長政は、秀吉が天下人になり寧々と結婚した事で安芸の国・広島藩42万6千石の城主となったのです。しかし、浅野家3男の浅野長重は、分家して赤穂50,000石の城主になるのです。
長重から3代目の長矩は、短気で領民に重税を課し、赤穂の領民からは暴君と嫌われておりました。
江戸城内の刃傷沙汰で長矩・切腹の報が赤穂の領民に伝わると、領民は赤飯を炊いてお祝いしたと言われております。
 5代将軍綱吉に即日切腹・赤穂藩の取り潰しが命じられたのです。

 なぜ、長矩は吉良に切り付けたのか疑問がわいてきます。
 1.指導役の吉良にわいろを贈らなかった。
 2.赤穂の塩の製法を教えなかった。
 3.赤穂の塩と三河の塩の経済戦争
といろいろ言われておりますが、どうも近松門左衛門の創作の部分が多く、腑に落ちないことが多いのです。
 吉良上野介は三河では今でも名君で吉良の乗っていた赤毛の馬が、民芸品として売られております。私も三河に行った時、買って来たぐらいです。

 これでは、芝居になりません。長矩を善、吉良を悪玉にしたのは、近松なのです。当時、赤穂藩には300名ぐらいの武士団がいました。徹底抗戦派と開城派がおりました。
ところが、広島の宗家・浅野家、親せき筋の三次藩・浅野家から
自分たちに罪が及ぶのを嫌い、開城の説得にあったたのです。
 大石もまた、抗戦派に対し開城の説得をしたのです。
大石がなぜ、癇癪持ちの暴君に吉良の首級を挙げることに意思を固めたのか。
 たぶん、即日切腹、なぜ、刃傷したか原因がわからなかったのでしょう。大石は浅野家と、親せき筋であったのです。当時の武士は主君のためにあって、ことあるときは命を捨てる。これが武士道だったのです。武士は、理由はともあれ、義に生きることが当時の家臣だったのです。
 大石は、吉良の首級を挙げた後、お家再興を願っていたのです。
しかし、吉良には何のおとがめなし。それが耐えられなかったのでしょう。
 原因は、一説には長矩の正室阿久里の横恋慕と浅野家秘蔵の
茶器を勅使供応の指導料として欲したのでしょう。
 また、長矩は、ストレスがたまると、胸が苦しくなるほどの、
精神異常者だったとも言われております。事実は面白くないのです。江戸の庶民は世の落ち着きに、御犬様にそんな世相に易癖していたのでしょう。それで、近松の創作「仮名手本忠臣蔵」に溜飲が下がる思いだったのでしょう。
 そんな思いの中に、四十七士の墓に手を合わせ、長矩・阿久里の墓標にも手を合わせ思いにふけった一日でした。

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泉岳寺の説明立札

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江戸時代の末期・天保年間の再建(大塩平八郎の乱の時代)
山門の龍の彫金・日本の 彫金の元祖 関 義則の作
                           
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大石内蔵助の墓

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赤穂浅野家のお墓(浅野長矩の墓)

太陽光を推進しよう会の「新瓦博士」
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江戸無血開城の裏話

2014.05.20 (火)

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今、東日本大震災で国民の意識が変化している。
1400年の瓦の歴史に、故郷の風景に、変調を感じるのは、私「屋根屋のおっさん」だけなのでしょうか。
瓦は1400年の歴史に中で、このままでは、技能者が育たない。震災。戦災。火災。多くの災難を乗り越えて、瓦が日本の街並みを支えたのです。そして今があるのです。
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 江戸の無血開城は、色々な意味で暦史の渦中にあって、必然というべきものだったのでしょう。
 15代将軍・慶喜は、旗本の中で一番嫌いな勝海舟を、官軍総司令官西郷との「三田の会見」望ませたのです。
 1週間ぐらい前の日経新聞に西郷と勝は、日本橋の若松や(現在の東京港酒造)で酒を酌み交わす気のおける、友であったのです。
 また、若松屋は、薩摩屋敷に出入りする御用商人でもあったのです。勝と西郷は貧乏侍で、現在の東京港酒造に彼らが飲み代の代金代わりに書いた看板が現存しているのです。
 その他、山岡鉄舟・高橋泥舟などの明治を動かした人物が
酒を飲みながら、新しい日本を激論したことでしょう。
 西郷は、島津斉彬のかわいがられ、島津分家の篤姫(天璋院)の将軍家嫁入りの総指揮者だったのです。
 島津斉彬の死後、島津家の当主、島津久光に疎まれ、西郷は、2度の島流しに逢うのです。
 この2人の舞台役者によって、政治の転換点おいて、無血開城が実行されたのです。
 三田の会見に先立ち、2人は薩摩藩邸で、根回しをしたのです。
 日本の政治が大回転する前夜に、慶喜は千住の大橋を渡り、振り返りつつ、水戸の母のもとに足重く数少ない従者を従え、千住に別れを告げたのです。
 こんな明治前夜の光景を光子と一緒に歌舞伎で鑑賞したのです。
これも、縁というしかありません。日本は、歴史の転換点に必ず良い方向を示す英傑が登場し、時代の舵を切ってきたのです。
 大化の改新に聖徳太子が隋の煬帝に日の本の天子として国書を送り、また、貴族社会から武士社会に変換時に頼朝が政治の中心に幕府を開いたのです。
 信長は戦国の世を天下武布の大義を掲げたののです。家康は諸法度の構想を掲げ、家光が確立したのです。
 明治は、大勢の英傑が現れ欧米に追い付き追い越せの思想が満ち溢れ近代国家に生まれ変わったのです。
 戦後は、天皇、吉田茂、白洲次郎、罪を追って刑場に散った東条英機達の強い意志で敗戦国でありながら高度成長を遂げたのです。
 原爆に荒廃した世の中から立ち上がったのも、運もあったかもしれませんが教育の高さに米国に次ぐGDPを成し遂げたのです。

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勝海舟と西郷隆盛の江戸開城の会見が行われた、
政治的意味合いに重要な場所です。

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ビルの鏡に投影された、会見の碑を見る
今回の東海道膝栗毛の人たち。

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高輪の大木戸。かって、江戸には江戸市中と郊外の
境に簡易関所(大木戸)3か所ありました。
東海道の高輪・甲州街道の四谷の大木戸(ここには、
江戸城内に引きこまれていた玉川上水の水管理も
兼ねておりました)・中山道の板橋の大木戸の
3か所がありました。

中山道・甲州街道の大木戸は明治9年ごろ、東京の
道路整備と鉄道建設のために、撤去されました。
この高輪の大木戸も、ほんの一部を残すに留め、
鉄道建設のため、撤去されたのです。


                           
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現在残る江戸の錦絵の風景の一部、高輪の大木戸に
かっては、高札がありました。

この一帯は、東海道の往来も多く、茶屋・酒屋、遊郭などもあり、
出入りは厳しく制限され、特に「入り鉄砲・出女」
は厳しかったのです。

夜間になると、大木戸が閉められ、江戸市中と
隔離されたのです。

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歌舞伎で有名な、浅野家の菩提寺泉岳寺の
山門の重厚さをご覧ください。

これもまた、瓦の持つ「日本文化」があればこそなのです。
瓦の屋根の美しさを皆さんは素通りしていることと思います。

時代劇の中で、瓦の持つ意味は大きいのです。
NHK大河ドラマ「新撰組」の中で、「京の町屋の瓦鐘馗」に
こだわり、NHKエンタープライズが瓦鍾馗の事で当社に電話をしてきたのです。

それで、
NHKに瓦鐘馗を販売致しました。

埼玉の屋根屋さん「住まいの基本は屋根にあり。屋根は文化だ。芸術だ。」
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瓦は歴史の生き証人です。
鬼瓦はネパールのカトマンズの神聖な寺院に源を発し
水の神様で、住まいを火事から守っておるのです。
魔除け・火伏の大事な役を担っています。

屋根リフォーム・屋根修理の名人「新瓦博士」。

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徳川家の6人の将軍が眠る芝・増上寺へつきました。

2014.05.20 (火)

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奈良東大寺の屋根は、瓦を平面に敷き詰めると20,000坪にもなるのです。
大仏殿に入って天井をご覧ください。
天井に四角いマス目が見えると思います。
6畳間の大きさがあるのです。驚くでしょう。
屋根を支えている垂木という四角金ぴかに光った物を
見ることができると思います。
それが30CM*40CMあるのです。こんな巨大な屋根が日本にあるのです。最後の再建したのが頼朝となんです。
1000年の時を経ているのです。
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徳川家康はすごいですね。なぜかって。江戸時代における、世界の都市の人口知っていますか。江戸が120万・北京が100万・フランスのパリが60万ロンドンが90万、アメリカのニューヨークにいったては、たったの1万4000人ですよ。

人口の統計だけを見ても、すごい事がわかりますね。その為、徳川政権の安定のため、鎖国をしたのです。これも日本の中だけで、地産地消が可能だったからなのです。
そして、将軍家は、貿易と佐渡金山の採掘で、各大名を抑え込んだのです。佐渡金山の枯渇と、西国の大名達が異国との戦いで、
通商件を持ったこと、幕府の財政悪化によって、明治維新の端緒が築かれるのです。
徳川秀忠の菩提をはじめ、徳川幕府の東国の東海道の鬼門が、芝・増上寺です。
家康の葬儀は遺言によって、浄土宗の増上寺が選ばれました。
 遺体は日光東照宮に、神として祀られ、北からの守りと、江戸市中から隔絶した日光は、戦乱からの渦中に置くことなく安置されたのです。
 増上寺の開基は1393年(足利4代将軍の時代)で、浄土宗の
東国における要の役割を担ったのです。家康は西国の大名や外様大名を改易によって力を弱めたのです。徳川260年間揺るぎない体制を築いたのです。
 この増上寺も山門は戦に備えた構造になっており、屋根の曲線美格別です。瓦葺き師として100年先を見越したが求められるのです。門前の芝公園には黒船のペリー提督の胸像もあり、近くには東京タワーや船の博物館の帆船もあってシニアの心をときめかす何かがありますよ。

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ファイル 1233-1.jpg
徳川秀忠はじめ、徳川幕府の東の鬼門、芝増上寺です。
家康の葬儀は遺言によって、浄土宗の増上寺が
選ばれました。

遺体は日光東照宮に、神として祀られ、北からの守りと、
江戸市中から隔絶した日光は、戦乱からの渦中に置くことなく安置されたのです。

増上寺の開基は1393年(足利4代将軍の時代)で、浄土宗の
東国における要の役割を担ったのです。

先にアップした、高声寺も増上寺よりは50年位前の
開基でした。

ファイル 1233-2.jpg
増上寺の山門の勾欄の下部部分の屋根の美しさです。
直線と曲線の織りなす美しさです。
解りますか。

私たち葺き師の仕事は何百年に環って
子々孫々にまで残すことができるのです。

これがあるから、私は、屋根屋さんが好きなのです。
100年以上残る仕事は、そんなに有るものではありません。

ファイル 1233-3.jpg
東京タワーです。
昭和の日本を代表建造物です。
私が高校1年の正月2日に3時間待って、乗りました。
その日は、開業から10日目でした。

1959年1月2日の出来事です。
日本が世界の仲間入りをした、南極観測に
活躍した犬たちが銅像になって、日本の行く末を
見守っているように見えました。

                           
ファイル 1233-4.jpg
芝公園にある黒船の提督ペリーの胸像です。

ファイル 1233-5.jpg
高架の下の日陰の川(金杉橋)
に釣り船が係留してありました。
かっての、数寄屋橋(銀座)の川にも
水上生活者のだるま船がひしめき合っていたのです。

それだけでなく、投網を打って生活していたのです。
れっきとした漁師さんがいたのです。

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日本の風土に合った瓦が健康にもよいこと知ってますか。
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