昭和20年8月15日、天皇陛下がポツダム宣言受諾と人間天皇の転換の詔が玉音放送で流れたのです。
私は、3歳で記憶にはないのです。記憶をたどる戦後は5歳ごろから始まります。
しかし、2020.8.15の75回節目の年にあたります。妻と共に「NHK」のTVを見ながら武道館で催された追悼式典に参列した気持ちで義父「宗春」を偲び黙祷を捧げました。
昭和20年の今日も東京は32.6度あったそうです。皇居前広場に泣きくずれ、無念感・脱力感の写真は映像の記録です。
このころ、私が理解できない不思議なことがニュースで流れていたことは、わが身で感じました。
1.中央本線.三鷹駅の列車暴走事件
2.東武線で国鉄総裁の不思議な死亡:他殺・自殺説
3.小松川事件(解決)
4.新宿区 日銀支店 毒殺「昭和の岩窟王」事件
3件の事件は迷宮入りです。
昭和22年9月8日~9月17日カスリーン台風による利根川決壊。
名称の件。当時は「米軍マッカサー司令官」の執政下で英国女性の名称だったのです。ローマ街道のアッピア街道がなずけられた同じ思想と思いました。
その後にも9月にキテイ台風で八潮市・江戸川区・葛飾区で浸水騒ぎ。
被害は死者1077人、行へ不明者1547人を確認。濁流に流される水死体も人も見ました。自衛隊の前身、警察予備隊すらなく、立ちすくむのみ。また、日当の時250円の時お米が60キロ15万円まで暴騰、母は、子供たちのためを思って泣く泣く払ったそうです。
我が家は、10人家族・食費も加算だことでしょう。私が6歳の時のことです。
官製落語があって、笑えぬ落語と評されたのです。招集令状が届き、男たちが「万歳三唱・お国のために皇軍入隊」女性たちは陰で泣く始末。戦争礼賛を煽る高村光太郎が昭和19年に出筆した子供向け雑誌が自宅に保存して在ります。
検閲のため書かざるを得なかったか? 生きることは大変です。
コロナで世の中が変わります。芥川龍之介「羅生門」の旅人が雨をしのごうと楼閣階上の老婆の姿を見て、生きるために「盗人」になろうと迷いながらなる話です。そんな若者が多くなることでしょう。戦後は、スリ、かっぱらい、詐欺、置き引き、強盗が多くありました。自宅のすぐ近くでもあり、怖いもの見たさに行ってみると部屋中が血だらけです。
妻の母の本当にあった話です。嫁ぎ先で一夜の宿を戦友が求めて訪れ、先妻を殺害し強盗に成ってしまったのです。親切が仇になったのです。こんな事実を信じられますか。
私が実体験した話です。ある工務店の依頼で鐘楼を手掛けたときです。仕事が終わり、住職の話です。彼はフイリッピン戦線に赴き、終戦近くで生きるために鬼に成って日本に帰還したそうです。
戦友を食べたのです。その後、悩みの毎日を送ったのです。相続と宝くじで1億6000万円得ることができ、廃寺を取得して庫裡の修理と鐘楼を新築したのです。
これで、やっと心が晴れたそうです。今は檀家が8件くらいしか無いそうですが、やっていく心ができたと喜んでいました。自伝も自費出版したそうです。
こんな時代がコロナで再来しなければと思う一人です。
妻と2人で宗春の死亡したフイリッピン・タングラッタに行ったときです。中曽根首相が友好記念と遺骨収集で訪問し、140万柱の夢ある若者の名誉の戦死を弔った友好の碑を見てきました。また、特攻兵のブロンズ像に百合の花を手向けてきました。多くの戦死者は銃撃戦・艦砲射撃・機銃掃射での戦死でなく、事実は90%が餓死者でした。
特攻戦術もフイリッピン戦線で初めて実行され、本土決戦の沖縄戦々に転戦したのです。
不沈艦大和の沈没、東京大空襲と原爆投下、ポツダム宣言の受け入れ、終戦の8月15日の昭和の大転換、戦後の朝鮮戦争を経て、グローバル化で飛躍的な経済の伸長、リーマンショック、現在のコロナ禍、ウィズコロナで米中戦争、その他、諸々の複雑極まりの世界が、戦争の影を落としています。
恒久に平和でありますように願います。