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長野で震度6弱=住宅全壊、一時閉じ込め-7人けが、土砂崩れも
長野県北部の地震について記者会見する気象庁地震火山部の長谷川洋平地震津波監視課長=23日未明、気象庁
22日午後10時8分ごろ、長野県北部を震源とする地震があり、長野市などで震度6弱の揺れを観測した。気象庁によると、震源の深さは約10キロ。地震の規模(マグニチュード)は6.8と推定される。午後10時37分ごろにも、同県小谷村で震度5弱の揺れを観測した。警察庁によると、同県白馬村と長野市で計7人が負傷した。地元病院によると、約20人が負傷し、うち3人が重傷との情報もある。
気象庁は23日午前0時から記者会見。長谷川洋平地震津波監視課長は今後の余震について、「目安として1週間程度、最大震度5強程度はあるかもしれない」と述べた。揺れの強かった地域は警戒が必要だという。
警察当局によると、同県白馬村神城で民家5棟が全壊した。5棟には2歳児ら21人が閉じ込められ、全員を救助したが、2人が負傷。ほか19人の負傷の有無を確認している。長野市では、仏壇が倒れたりタンスの上から物が落ちたり、転倒するなどして計5人が負傷した。
長野県などによると、白馬村の国道406号や小谷村の国道148号で土砂崩れがあり、通行止めとなった。上信越自動車道と長野自動車道も点検のため一部が通行止めになった。ほかに、土蔵が壊れ、水道管が破裂するなどの被害があり、大町市では鉄塔が倒壊。新潟県糸魚川市で落石があった。
地震の影響で、東海道、東北、上越、山形、秋田の各新幹線が一時運転を見合わせた。長野新幹線は23日未明まで一部区間で見合わせが続き、下り列車3本の乗客約570人に影響。在来線も運休や遅れが相次いだ。原子力規制委員会によると、東京電力柏崎刈羽原発(新潟県)、北陸電力志賀原発(石川県)、中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)ではいずれも異常が確認されていない
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萱葺き屋根と瓦の美しさを撮ってみました。
標高620mに位置するたむらは10万坪の敷地と
素晴らしい庭、心を癒す大露天風呂、色々なお風呂の
スタイルを楽しむことができます。
駐車場のところにある蔵と真っ赤に染まったどうだんつつじ
素敵としか言いようがりません。
標高が少し高く、山々を抱え、温暖長が激しいため、
紅葉が美しいのです。
紅葉が美しい裏山の木々
四万川にかかる積善の渡り廊下。
よく見ると滝も見えます。
群馬県のホテルとしてただ一つの文化財。
元は庄屋をしていたので、江戸時代の建物です。
木端葺きのっムクリ破風の玄関の積善館です。
太陽光を推進しよう会の「新瓦博士」
当社ホームページはhttp://www.ogiya.co.jp です。
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日本の風土に合った瓦が健康にもよいこと知ってますか。
全瓦連のホームページも見てください。
屋根の知識に素晴らしい情報が満載。
連絡先は埼玉県久喜市 ㈱オオギヤです。
FD 0120-58-9901
四万たむらの始まり
たむらの祖・田村甚五郎清政が四万温泉に来たのは室町時代永禄六年(1563年)です。
甚五郎清政は、山城として有名な吾妻の岩櫃城の六代目城主斉藤越前守基国に仕えておりました。
その年武田勢に攻められ越後に逃れる時、四万山中に路を求めましたが、更に北上する城主の行先を守るため、ここにとどまり追っ手を防ぐこととなりました。
やがてそのままこの地に土着し、四万川の中から湧出する温泉を発見して、湯宿を始めたのが四万温泉の始まりと言われています。
仁王像がやってきた経緯
「本仏像二体は、明治晩年十二世田村茂三郎が上越国境を越へ浅界神官の家に宿りしおり、神官の内職の技として刻めるものを求めたるものなり」
との書付が残っております。
有名な仏師の作ではありませんが、明治の時代歩いて山越えすることを思うと、たむらにとっては大事なもののひとつです。
その隣の、
「三七日の 四萬の薬師の効ありて 五臓六腑に 病なかりけり」
の彫り物の画像ですが、こちらは、
子爵 品川弥次郎 口筆
「本歌は明治十七年八月七日 子爵が「粥腹」の歌と併せ詠みて
賽陵館館主 十一世田村茂三郎に贈り 訣別の紀念とせり」
との書付があります。品川弥次郎は、明治の内務卿となった方です。
四万たむらの母屋
たむらの母屋は、江戸時代天保五年(1834年)十代田村茂左衛門により改築されたものです。
江戸時代の初め領主真田氏から「湯守」の役を任ぜられており、神社仏閣と同様な裾の反りあがった「向破風」の屋根を造ることを許されました。
建物の中に入ると奥が一段高くなっており、位の高い方が休まれた書院造りの「上段の間」その手前には従者が待機した「中の間」と呼ばれる部屋が残っています。
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幕末から明治初年の四万温泉は、火災や榛名山の噴火などで一時さびれた状態でありました。
慶応義塾で学び、福沢諭吉先生に直接薫陶を受けた12代目当主・田村茂三郎は、「四万温泉は不便だからなかなか行かれない、これからの観光は交通だよ」との師からの進言を受けバス会社を設立しました。当時四万温泉へは馬車に頼るしかない時代でした。
温泉組合が成立された明治21年(1888年)頃から、日清戦争の終わる明治20年代末頃にかけて賑やかになり、明治時代後半には道路の整備などが行なわれ、新湯地区を中心に再び活気を取り戻してきました。当時の湯治客は、短い人でも1週間、長い人になると1ヶ月も2ヶ月も逗留していました。