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今は、旧東海道の面影もなくなった藤沢の宿場

2014.09.29 (月)

http://blog.with2.net/link.php?720512
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今、東日本大震災で国民の意識が変化している。
1400年の瓦の歴史に、故郷の風景に、変調を感じるのは、私「屋根屋のおっさん」だけなのでしょうか。
瓦は1400年の歴史に中で、このままでは、技能者が育たない。瓦は震災。戦災。火災。多くの災難を乗り越えて、瓦が日本の街並みを支えたのです。そして今があるのです。
TEL0480-58-0301 瓦も軽量瓦がありますよ。
ご連絡お待ちしております。

ファイル 1315-1.jpg
忠臣蔵で馴染み深い東海道の
お軽勘平の碑
忠臣蔵の歌舞伎演目に出てきます。

吉良上野介邸の討ち入りの日に
勘平はお軽に横恋慕して、江戸を逃げるように
立ち去り、四十四士の浅野家臣達に勘平は男が立たんと言って、
戸塚の宿に来たのです。

短剣を抜いて、切腹しようとしましたが、
短剣をお軽に取り上げられ、お軽に実家のある京都の内蔵助が遊興した京都の山崎に落ち延びることを勧められたと言われる碑。

ファイル 1315-2.jpg
戸塚宿大坂の松並木は明治時代までは立派なもので,
鎌倉に住んでいた浮世絵師:鏑木清方も大阪で車を止めて
スケッチしたと言い伝えられています。
古い写真集には「「清方の松」が良く掲載されてています。
でも、戦時中の松根油製造と戦後の通過自動車の急増、
排気ガス問題で大坂の松は次々に枯れてしまいました。
枯れたら植えれば良いのですが、地元の行政は
そんな地味な事には関心を示さず、弱った松は松喰い虫が付くから…伐採してしまいました。
ですから往時をしのばす景色はもう全く残されていません。
 今、往時の松並木が、この旧東海道にあればインバウンドを呼び込めることでしょう。ローマ街道には地中海松がありました。

わずかに、歩道の脇に「お軽かる勘平」の碑が寂しく建っています。碑の背後には背の丈ほどの痩せこけた松の苗が植えられています。

1本では松並木になりません。時代の流れなのでしょう。

ファイル 1315-3.jpg
遊行寺の本堂。東海道藤沢宿の時宗の総本山
珍しい寺紋がありました。亀甲三引なのでしょうか。
東海道の道すがらの有ったものですから、
境内は栄へ、門前町も形成されました。門前に位置が立っていたことでしょう。

今は、面影がなく、一般お住まいが立ち並んでおりました。


                           
ファイル 1315-4.jpg
安藤広重の神奈川宿と戸塚宿の浮世絵(東海道五十三次)
望むべくもなく海は見えず、ビルが林立しておりました。

ファイル 1315-5.jpg
安藤広重の東海道53次を見ていると
往時の藤沢の宿の賑いが想像できます。

遊行寺の様子が山の上に描かれております。
ここは江の島弁財天に詣でる分かれ道で、弁天様の
第一の鳥居が描かれております。

遊行寺の境内には、宿場町が火災に逢った時
人々が火災から逃れるために「広小路」が
作られていたのです。

今、有名なのは、上野広小路が有名です。
今は、ハザード・マップに災害時の避難場所が
出ています。
広小路は、昔の災害避難場所なのです。

その一つに、関東大震災の時に日比谷公園は多くの府民の命を
救ったのです。

近代公園の設計者、久喜市菖蒲町の本多静六博士の設計です。
また、日比谷公園には、樹齢400年なる銀杏があったのでが、
日比谷通りの拡張工事で、邪魔だということで伐採の危機に
面したのです。

その時、本多静六博士は、自分の首にかけても移植する。
といって450m移すのに25日かかったそうです。

関宿の細井組の社長が巨木のの移設が大変難しい
話を聞いたことがありました。

今では、日比谷公園の名物木で「首掛け銀杏」と
都民から愛されております。

久喜市・加須市・白岡町・杉戸町・羽生市・古河市・熊谷市の皆さん応援してくださいね。
連絡は0120-58-9901 または0480-58-0301

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戸塚宿大坂の図